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木之下城(きのしたじょう)/犬山城の前身の城(木ノ下城)

犬山城の前身の城が愛知県犬山市にあります。

木ノ下城(きのしたじょう)です。

60年以上、代々織田家が居城とした城です。

ご紹介します。

木之下城(きのしたじょう)/犬山城の前身の城(木ノ下城)

(写真:たかまる。)

  • 木之下城は約60年、織田の居城とされた
  • 犬山城築城により廃城となった
  • 区画は意外と広かった

木之下城は約60年、織田の拠点とされた

  • 築城は文明元年(1469)
  • 築城者は織田広近

木之下城は、応仁の乱の初期に美濃厚見郡川手城・土岐成頼(ときしげより)の来襲に備えて、文明(ぶんめい)元年(1469)五月、織田遠江守広近(ひろちか)が木之下村(現在の犬山市木之下地区)に築城したのが始めとされます。

織田広近はこのとき、現在の愛知県大口町にある小口城(おぐちじょう)を拠点としており、木之下城を支城として守りと固めたと考えられます。

ちなみに小口城も織田広近の築城です。

それ以降、約60年間にわたって織田氏の拠点とされていました。

天文(てんぶん)6年(1537)、織田信康(のぶやす)が現在の犬山城付近(乾山(いぬいやま)と言われる?)に城を移し、木之下城を廃城としました。

織田信康は信長の父・信秀(のぶひで)の弟です。

つまり、信長(のぶなが)の叔父にあたります。

武功夜話には、永禄(えいろく)7年(1564)に織田信長が犬山城に籠もる織田信清(のぶきよ)を攻めるとき、かつての木ノ下城に宿営し、犬山城攻めの拠点としたと書かれています。

慶長(けいちょう)11年(1606)、鍛冶兼常さんが当時の犬山城主・小笠原吉次(おがさわらよしつぐ)に願い出て、木之下城跡に愛宕山長泉寺延命院が建立されました。

延命院は明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)、神仏分離(しんぶつぶんり)のために廃止されました。

延命院の中にあった愛宕神社になり、現在まで残っています。

昭和54年(1979)12月25日に城跡が犬山市指定史跡になりました。

木之下城跡は、いまは愛宕神社

(写真:たかまる。)

  • 木之下城跡は、現在は愛宕神社が建てられている
  • 社殿のある高まりには物見櫓があったか?

木之下城は、犬山市図書館南にある愛宕神社(あたごじんじゃ)の辺りにあったとされます。

現在は愛宕神社が残されるだけであり、遺構はほとんどありません。

しかし、社殿は約3mほどの高まりの部分に建てられており、この高まりがかつて物見櫓などがあった可能性を物語っています。

この高まりの裏には堀の跡と思われるくぼ地状の地形がありますが、これは木之下城跡の遺構ではなく犬山城の惣堀(そうぼり)の跡であると考えます。

社殿の手前には「金明水」と呼ばれる井戸があります。

この井戸はどんな日照りでも枯れることがない井戸として伝承が残っています。

木之下城と城下町は意外と広い

(写真:たかまる。)

  • 木之下城の中心部は南北150m・東西100m程
  • 城下町はさらに南北400m・東西250mの区画

特定非営利活動法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク発行の「木之下城と織田街道」によると、一般的に木之下城跡は愛宕神社を含めた南北150m・東西100m程と推定されることが多いですが、城下町はさらに南北400m・東西250mの区画が存在した可能性が高いとされます。

つまり、北は愛宕神社のあたりから南は犬山南小学校付近まで。

東は県道と市役所との間の小さな路地から西は犬山城の木戸「木之下口」のあたりまでと推定できます。

南方の東側には薬師寺(やくしじ)、その西側には徳授寺(とくじゅじ)があり、この両寺に挟まれた区画となります。

さらに、愛宕神社の北側はかつて「北宿町」と呼ばれた地区で、木之下城とその城下町を形成するうえで重要な場所だったと考えられます。

犬山市史では、北宿町の名前について「城の北にある宿の意」としています。

地形も見てみます。

木之下城があった場所は標高50mほどの犬山台地の西端に位置し、その西側は10m以上の段差をもつ段丘崖となっています。

東側はなだらかな斜面となっており、その東は低湿地帯だったと思われる場所です。

これをmapに落とし込むと、下のようになります。

地図:木之下城跡の推定地

▲木之下城跡の推定地(国土地理院地図をもとに改変)

Google mapでも作ったのでご参考に。

発掘調査などがされていないため大胆な推定だと思いますが、犬山に残る地形などから総合すると意外とすっぽりとハマるので驚きました。

薬師寺がなぜ犬山城下から少し離れたところに建っているのか疑問でしたが、木之下城があったからなのかもしれません。

参考

「木之下城と織田街道」(発行:特定非営利活動法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク)

木之下城の城主は織田氏3代、60年以上

  • 織田広近が築城
  • 60年以上、織田氏の居城とされた
  • 織田信康が犬山城を築城し、廃城となった

木之下城の城主は、一般的に次の通りと言われています。

織田遠江守広近(ひろちか):文明元年(1469)~文明7年(1475)
織田伊勢守敏定(としさだ):文明7年(1475)~永正元年(1504)
織田左馬助敏信(としのぶ):永正2年(1505)~永正15年(1518)
織田伊勢守信安(のぶやす):永正15年(1518)~大永5年(1525)
織田弾正忠信定(のぶさだ):大永5年(1525)~享禄元年(1528)
織田与次郎信康(のぶやす):享禄元年(1528)~天文6年(1537)

しかし、この説は様々な古文書などの整合が取れないなど不備な点が多いことが指摘されています。

いま最も有力と思われる説は次の通りです。

木之下城の歴代城主
 

織田遠江守広近(ひろちか):文明(ぶんめい)元年(1469)~延徳3年(1491):在位22年

織田与十郎寛近(とおちか):延徳(えんとく)3年(1491)~天文4年(1535):在位44年

織田与次郎信康(のぶやす):天文(てんぶん94年(1535)~天文6年(1537):在位2年

 

いずれにしても織田氏が60年以上、代々城主と務めていました。

小口城の支城として築城された木之下城も、犬山城へと変遷していく中で重要性が増し、逆に犬山城が城主・信清(信康の子)のころには小口城が支城となっています。

情勢が変わって木之下城の役目は犬山城へと着実に引き継がれていったことがわかります。

木之下城を築城した男。織田広近(廣近、ひろちか)

(写真:たかまる。)

出生は不明です。

子に寛広(とおひろ)、寛近(とおちか)=津田武水、広忠(ひろただ)があります。

広近は長禄(ちょうろく)3年(1459)に犬山の南方の丹羽郡小口村(現在の大口町下小口)に築城を始め、翌寛正元年に入城しました。

当時は筈城(やはずじょう)と呼ばれていましたが、信長公記には「於久地」と書かれており、いまでは小口城と呼ばれます。

城の東には五条川が流れており、二重の堀と土塁によって曲輪が作られていました。

中心部には堀に囲まれた相当広くて高い土壇(高まり)が築かれていました。

広近は、美濃斎藤氏に備えるため、文明元年(1469)に尾張国丹羽郡木下村(犬山市木之下町)に木之下城を築城しました。

その後、小口城から移って木之下城を本城としたらしい。

文明(ぶんめい)元年(1469)2月、尾張丹羽郡にあった徳蓮寺を再興し、のちに「徳林寺」と改称したとされます。

徳林寺には文明7年(1475年)に広近によって建立された中門が現在も残っています。

文明7年(1475)に長男・寛広を兄・織田敏広の養子としたため、家督は次男・寛近に譲りました。隠居所として「萬好軒(ばんこうけん)」(現在の大口町「妙徳寺」)を建てて隠居しました。

17年後の延徳(えんとく)3年9月24日(1491年10月27日)没とされます。

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木之下城インフォメーション

(写真:たかまる。)

別名
城郭構造 平城(南北150m・東西100mの区画と推定)
築城主 織田広近
築城年 文明元年(1469)
主な城主 織田広近、織田寛近、織田信康
廃城年 天文6年(1537)
遺構 愛宕神社、井戸
場所 愛知県犬山市犬山愛宕16-1

まとめ

(写真:たかまる。)

木之下城は戦国時代に犬山に築かれた城で、60年以上織田氏の居城とされた城です。

犬山城の築城により廃城とされましたが、街道や城下町の形成などがあったと思われ、意外と広範囲にわたっていたと推測できます。

いまもその道や地形などが残るので、マップを見ながら散策してみてはいかがでしょうか?

ということで、木之下城をご紹介しました。

じゃあね🖐️

2020年07月15日
犬山城マイスター!たかまる。

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