中世の城は山城と居館の二元構造だった。

武士が台頭する時代になり、城の形が変わってきました。

鎌倉時代(かまくらじだい)、南北朝時代(なんぼくちょうじだい)、室町時代(むろまちじだい)などの中世には、有事には山城に籠城(ろうじょう)し、平時は山麓(さんろく)の居館で生活というのが一般的になってきたのです。

今回は中世のお城について、深掘りしていきます。

中世の城は山城(やまじろ)と居館(きょかん)の二元構造だった。

足利氏館

  • 中世以前の城づくりは国家プロジェクト
  • 鎌倉時代には平地に館を造るようになる
  • 山城と居館の二元構造となる

中世以前の城は対外的な防衛を目的としたもので、城作りは国家プロジェクトでした。

平安時代末から鎌倉時代にかけて武士が力をつけてくると、各地に館を築きました

そして鎌倉幕府が弱体化してくると、各地で戦が頻発するようになり、平時は居館などに住んでいましたが、有事には山城に籠城するという「二元構造」が出来てきました。

以下に詳しく深掘りしていきます。

鎌倉時代の館

足利氏館

  • 鎌倉時代は館が主流
  • 館には防御機能はほとんどない
  • 戦の時には山城を利用するようになる

鎌倉時代の遺構や資料などはほとんど残っていないようですが、絵巻物などの資料から当時の様子を伺うことができます。

それらによると、鎌倉時代の館には土塁などの防御施設はあまりなく、堀なども区画や用水路として使用されていたにすぎません。

つまり、鎌倉時代の館は防御が目的ということはあまりなかったようです。

しかし鎌倉幕府が弱体化して世の中が不安定になってくると、各地で戦が頻発するようになりました。

そこで館では防御しきれないため、近くの山を利用して山城が作られるようになりました。

有事は山城(やまじろ)、平時は山麓(さんろく)

江馬氏下館

  • 有事には山城に籠城
  • 山や丘などの天然の地形を最大限に利用
  • 居館にも堀をめぐらし、塀も作って武装化

南北朝時代(なんぼくちょうじだい)の山城は、有事の時に籠城(ろうじょう)するのが目的でした。

そのため、山や丘などの天然の地形を最大限に利用しました。

そして簡素な防御施設を設けただけで、通常そこで生活するということはありませんでした。

つまり、あくまでも戦の時に使用する臨時の防御施設ということです。

逆に平時には、城主や武士などは山麓に構えた居館で生活していました。

居館は「館(やかた)」「屋形(やかた)」などと呼ばれました。

この頃になると、居館の周囲に堀をめぐらし、塀も作って武装化しています。

その内部には、御殿や蔵、台所、馬屋などもありました。

この後、室町幕府が弱体化して戦国時代へと突入していきますが、織田信長などの戦国大名の台頭により、また城の形が変わっていくのです。

まとめ

  • 鎌倉時代、南北朝時代、室町時代と進むにつれて、城の目的と形が変わった
  • 防御性の低い館から、戦で使用する山城が登場
  • 有事には山城、平時は山麓の居館という二元構造ができた

鎌倉時代、南北朝時代、室町時代と時代が進むにつれて、城の目的と形が変わっていきました。

防御性の低い館から、戦で使用する山城の登場、そして有事には山城、平時は山麓の居館という二元構造が出来上がっていきました。

戦国時代に突入し、城の形がどのように変わっていったのかは次の記事で書きたいと思います。

ということで、中世の城は山城と居館の二元構造だったというお話でした。

じゃあね🖐️

2020年01月09日
犬山城マイスター!たかまる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください

CAPTCHA