羽黒城(はぐろじょう)

愛知県犬山市の南の方、羽黒地区に羽黒城(はぐろじょう)があります。

この城は、鎌倉時代に梶原景親によて築城され、小牧・長久手の戦いでは砦として利用されました。

詳しくご紹介します。

羽黒城(はぐろじょう)

▲ 羽黒城の高まり(写真:たかまる。)

愛知県犬山市の南の方、羽黒地区に羽黒城(はぐろじょう)があります。

この城は、鎌倉時代に梶原景親によて築城され、小牧・長久手の戦いでは砦として利用されました。

詳しくご紹介します。

羽黒城の築城は鎌倉時代

▲ 羽黒城の高まりと横堀跡(写真:たかまる。)

築城年代は定かではありませんが、建仁年間(1201〜1204)に梶原景親(かじわらかげちか)によって築かれた平城(ひらじろ)と言われています。

景親は、鎌倉幕府の重臣・梶原景時(かじわらかげとき)の孫です。

(景時の次男・景高(かげたか)の子)

景時は源頼朝(みなもとのよりとも)の右腕として鎌倉幕府に貢献したのですが、御家人からはとても嫌われていました。

頼朝が亡くなると御家人66人の連判状が2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)に出され、景時は失脚、鎌倉を追われました。

そして一族を引き連れて上洛する途中に駿河で襲撃を受け、一族のほとんどが討たれました。

この時、梶原景時の次男・景高(かげたか)も討死しましたが、その子・豊丸(とよまる)は無事でした。

乳母・お隅の方は豊丸を連れ、縁のあった羽黒へ逃れました。

そしてこの地で成長した豊丸は梶原景親(かじわらかげちか)と名乗り、現在の興禅寺(こうぜんじ)辺りに羽黒城(はぐろじょう)を築いたのです。

その後、戦国時代まで梶原氏が代々の居城としました。

6代目梶原景綱(かげつな)は岩倉城主で尾張国上四郡の守護代・織田敏広(おだとしひろ)に仕えました。

17代目梶原景久(かげひさ、景義ともいう)は織田信長(おだのぶなが)に仕え、羽黒3,000石を領していました。

信長の嫡男・信忠(のぶただ)の与力となり、共に各地を転戦します。

永禄(えいろく)12年(1569)の伊勢大河原城攻め、元亀(げんき)元年(1570)の摂津攻めと志賀の陣、天正(てんしょう)2年(1574)の長島一向一揆討伐などです。

織田信忠を総大将とした甲州征伐では、木曽義昌(きそよしまさ)の援軍を率いて勝利に貢献しました。

しかし、天正10年(1582)の本能寺の変で織田信忠が討たれ、景久も嫡男・松千代とともに討死し、梶原氏は滅亡しました。

これにともなって、羽黒城は廃城となりました。

小牧・長久手の戦いで砦となる

▲ 羽黒城北の土塁跡(写真:たかまる。)

天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いが起こります。

天正12年3月17日(1584年4月27日)におきた八幡林の戦い(はちまんばやしのたたかい、または羽黒の戦い)において羽黒城跡、興善寺などが戦火に巻き込まれて焼失しました。

羽柴秀吉(はしばひでよし)の命により、山内一豊らが廃墟となっていた羽黒城を修築し、砦が置かれました。

秀吉と織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康(とくがわいえやす)が対立したこの戦で、犬山城と小牧山城の間に陣や砦が沢山作られて膠着状態となりました。

秀吉はその間に犬山城から楽田城へと前進しました。

この時に羽黒城も陣地として再構築されたと言われています。

守将には山内一豊(やまうちかずとよ)と堀尾吉晴(ほりおよしはる)が入りました。

織田・徳川連合軍に対する最前線の城砦群の一つとして重要視されましたが、この戦が終わると廃城になりました。

ちなみに、山内一豊は高知城を、堀尾吉晴は松山城を築城しました。

ともに現存天守があり、高知城天守は国重要文化財、松山城天守は国宝に指定されています。

見どころは堀、土塁

▲ 羽黒城の高まり北側の横堀跡(写真:たかまる。)

羽黒城跡は梶原氏の菩提寺である興禅寺及びその東側一帯にあります。

寺の東側にある竹藪部分が城跡です。

竹藪の前に説明板があり、そのまま少し東に進んだところに古い説明板があります。

この古い説明板から北の竹藪の中に入り、真ん中の土塁上を西へ登った高まりの上に羽黒城趾の石碑が建てられています。

前方後円墳の墳丘を利用したと言われていますが、埴輪や土器などが出土しておらず詳しいことはわかっていません。

この高まりの西側と北側には堀跡があります。横堀(空堀)です。

高まりに設けられた主郭または物見櫓を守るための堀だったのでしょうか?

北側の堀のさらに北は平坦地になっており、北側の道路とのちょうど境に高さ60㎝ほどの土塁が残っています。

これらの地形から、高まりの南側が主郭、北側が外郭と見ることもできます。

城内には五輪塔が祀られています。

また、興禅寺の北東側にも土塁が残っています。

梶原氏由来の磨墨塚(するすみづか)公園も一緒に散策しよう

▲ 磨墨塚史跡公園から羽黒城跡を望む(写真:たかまる。)

羽黒城跡の北側には磨墨塚史跡公園(するすみづかしせきこうえん)があります。

ブランコなどの遊具と一緒に名馬・磨墨の墓があります。

梶原景時が源頼朝から拝領して宇治川で先陣争いをしたときの名馬です。

磨墨塚の内部には豊丸の乳母・お隅の方の墓と、名馬・磨墨のお墓があります。

この地で没した名馬・磨墨の死を惜しんで、この塚が祀られたようです。

興善寺も一緒に散策しよう

▲ 興善寺北にある土塁跡(写真:たかまる。)

小牧・長久手の戦いのときに羽黒一帯が焼失してしまいましたが、慶長7年(1602)に犬山城主・小笠原吉次の寄進によって、羽黒場の居館(梶原屋敷)があったとされる現在地に興善寺が再興されました。

平成16年(2004)に庫裏が登録有形文化財に、平成18年(2006)に本堂・山門が登録有形文化財に登録されました。

また、興善寺には小笠原吉次像の掛け軸が所蔵されています。

▲ 小笠原吉次像(興禅寺所蔵)

羽黒城インフォメーション

▲ 羽黒城の案内板(写真:たかまる。)

別名
城郭構造平城
築城主梶原景親
築城年建仁年間(1200〜1204)
主な城主梶原氏、山内一豊・堀尾吉晴
廃城年天正12年(1584)
遺構曲輪、土塁、横堀(空堀)
場所愛知県犬山市大字羽黒字城屋敷

アクセス

・公共交通機関

名鉄小牧線羽黒駅から徒歩約10分

・車

東名高速小牧IC降りて国道41号を北上します。五郎丸交差点を右折し県道27号を進みます。市民文化会館・南部公民館の南側にある竹藪が羽黒城跡です。

市民文化会館の南側にするすみふれあい広場があり、その駐車場が利用できます(無料)。

まとめ

愛知県犬山市の南の方、羽黒地区に羽黒城(はぐろじょう)があります。

この城は、鎌倉時代に梶原景親によて築城され、小牧・長久手の戦いでは砦として利用されました。

土塁や横堀などが残る平城です。

ということで、羽黒城をご紹介しました。

じゃあね🖐️

2020年07月17日
犬山城マイスター!たかまる。

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