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【お城の基礎知識】白い城と黒い城

お城といえば天守です。

江戸時代から残っている現存天守(げんぞんてんしゅ)は12しかありませんが、外観復元天守(がいかんふくげんてんしゅ)も含めるとそこそこの数の天守を見ることができます。

色々な天守を見比べると白い天守と黒い天守があることがわかります。

黒い天守は豊臣のお城、白い天守は徳川のお城と一般的には言われますが、それは本当でしょうか?

今回は白いお城と黒いお城について学んでいきたいと思います。

天守の登場

白い天守、黒い天守の話をする前に、まず天守が登場した背景を見ています。

天守を一番最初に建てたのは織田信長と言われています。

その最も代表的なものが安土城です。

安土城天守は現存していませんのでどのような姿をしていたかというのはっきりとはわかりませんが、今までに色々な復元図が作成されています。

それらを見ると安土城天守は黒色の天守です。

ということは、天守が登場してからしばらくは黒い天守が主だったと考えられます。

黒い天守

黒い天守は壁が黒色です。

具体的には、板張りの壁が雨風で朽ちないように黒漆(くろうるし)や柿渋(かきしぶ)などを塗って耐久性を高めたものです。

このため、見た目に黒い天守となるのです。

現存する例で言えば、松本城天守が黒いお城です。

外観復元天守で言うと岡山城天守や熊本城天守が黒い天守です。

これらの黒い天守はおおよそ関ヶ原の戦い(1600年)以前に建てられたものが多いと考えられます。

▲ 松本城天守は黒い天守(写真:たかまる。)
▲ 岡山城天守(外観復元天守)は黒い天守(写真:たかまる。)

白い天守

白い天守は、壁が白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)になっている天守です。

石灰の採掘地が多数発見されて石灰を用いた白漆喰(しろしっくい)という火に強い素材が壁に用いられるようになったのです。

これはおおよそ関ヶ原の戦い(1600年)以降の徳川政権下での築城によく見られます。

例えば池田輝政の姫路城天守や尾張徳川家の名古屋城天守が有名です。

豊臣恩顧の大名である毛利氏の萩城天守や島津氏の鹿児島城天守なども白壁の天守です。

▲ 姫路城天守は白い天守(写真:たかまる。)
▲ 名古屋城天守(外観復元天守)は白い天守(写真:たかまる。)

黒は豊臣、白は徳川はウソ

黒い天守は豊臣の城、白い天守は徳川の城とよく言われますが、それはウソです。

確かに豊臣政権下での築城は白漆喰の壁が多く見られますが、徳川の城でも徳川家康が誕生した城である岡崎城天守や、徳川家の葵の御紋が瓦に入っている松山城天守などは黒い城です。

一方で、豊臣恩顧の大名である毛利氏の萩城天守や島津氏の鹿児島城天守などは白壁の城であり、どちらが白どちらが黒というわけでもなさそうです。

何が違うかと言うと壁の耐久性に対する技術の進歩によるものだと考えられます。

漆喰の壁は今でもそうですが高級なため、お金のある大名は白い壁を好んで作ったようです。

その他にも城主の威厳を示すためにどちらを使った方がいいのか、ということで判断されたのもあったでしょう。

▲ 松山城

まとめ

天守の壁の白や黒というのは豊臣や徳川ということとはあまり関係がなく、壁の技術の進歩によると考えられます。

その当時の時代背景なども考えて、天守の壁の色を見比べてみると面白いと思います。

ということで白い天守、黒い天守というお話でした。

じゃあね🖐️

2019年09月02日
犬山城マイスター!たかまる。

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