武家諸法度(ぶけしょはっと)

元和元年(1615年)に江戸幕府が武家諸法度(ぶけしょはっと)を公布しました。

これによって大名たちは城の修理や築城を勝手に行うことができなくなりました。

違反した場合には罰則もある厳しい法令だったそうです。

今回はこの武家諸法度について学んでいきましょう。

内容

武家諸法度(ぶけしょはっと)は元和元年(1615年)7月に公布されたもので、その後の幕府の根本となった法令です。

武家の行いについて規定された法令ですが、その中でもお城に関係することとしては大名が居城を修理・修復する場合には事前に幕府に届け出なければいけないということが義務づけられました。

しかも将軍の許可が得られないと工事ができないという厳しいものです。

大名が勝手に城を直したりすると幕府に対して反逆の意があるとされ、幕府が正式に派遣する諸国巡見使の査察などがありました。

有名なところで言うと、広島城の福島正則が幕府の許可を得ず、本丸・二の丸・三の丸の石垣を修理したことによって改易されたというのがあります。

しかし寛永12年(1635年)の改訂によって石垣・土塁・堀の修復は今まで通り許可が必要だとされましたが、櫓・門・塀などは元通りに修復するのであれば届出の必要はなくなりました。

これが意味するところは、普請(ふしん)と言う土木工事は許可が必要で、作事(さくじ)という建物の修復については届出の必要がないということです。

幕府が普請を厳しく取り締まる姿勢が伺えます。

しかし、いずれにしても新しい城を作ることは基本的には認められなかったのです。

▲ 福島正紀は居城・広島城の修復を無許可で行ったとがめられて改易された。(写真:たかまる。)

犬山城の場合

※この記事は犬山城マイスター!たかまる。が執筆していますので、犬山城についてもピックアップしてご紹介します。

犬山城も江戸時代を通して大雨や地震火災などによって、石垣が崩れたり建物が破損消失したりすることが何度かありました。

そしてその度に幕府に修理の届出をして許可を得てから修理するということを行っています。

寛永七年(1630)から慶応元年(1865)までの250年間に31通の許可書が確認されています。

この他にも、修復が行われたことを示す城絵図や史料なども残っています。

天保13年(1842)には、焼失した松の丸・桐の丸・樅の丸の櫓・門・塀から御殿・侍屋敷まで39か所を再建・修復しています。

櫓・門・塀などの修復は届け出は本来は必要ありませんでしたが、焼失による建物の再建は新築工事とみなされるため届出して許可を得てから工事を行ったようです。

このように記録をたどることによって、武家諸法度がどのような法令であったのかということを見ることができます。

▲ 犬山城は天保13年に火災で焼失した松の丸や樅の丸・桐の丸の修復を幕府の許可を得て実施した。(写真:たかまる。)

まとめ

元和元年(1615年)に出された武家諸法度はその後の幕府の根本をなす法令となり、大名たちの城の維持管理が厳しく制限されることとなりました。

新しく城を自由に作るということができなくなったのです。

これ以降、城が新しく作られることが殆どなくなり、城の発展は頂点を迎えました。

ということで、江戸時代初期に出された武家諸法度についてのお話でした。

じゃあね🖐️

2019年09月11日
犬山城マイスター!たかまる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です