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犬山城、廃城の危機! 襲いかかる戦、そして三度の落城 ー 信長の尾張統一戦、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い・前哨戦

480年ほど前に築城された犬山城。

天守の創建年代は諸説ありますが、400年以上たっていることは間違いありません。

そして、戦うための施設であるがゆえに、戦の舞台となることは必至。

その戦いのために焼失・廃城になった城は数知れません。

犬山城にも襲いかかった三度の戦(いくさ)、そして落城。

その三度の戦いを振り返ってみましょう。

犬山城、廃城の危機! 襲いかかる戦、そして三度の落城 ー 信長の尾張統一戦、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い・前哨戦

一度目の戦い <信長の尾張統一戦>

犬山城の一度目の落城は、信長の尾張統一戦のときの犬山城の戦いです。

1500年代初頭、当時の尾張は守護の斯波氏(しばし)が治めていました。

しかし、斯波氏の権威が失墜していく中、守護代である清洲織田氏(大和守家)と岩倉織田氏(伊勢守家)が勢力争いをするようになります。

このような中で急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠(だんじょうのじょう)家です。

そしてその当主となった織田信長が守護代である清洲織田氏、岩倉織田氏を滅ぼします。自分の親分を倒して戦国大名として台頭していくわけですね。

その時に犬山城の城主だったのが織田信長の従兄弟である織田信清(のぶきよ)です。

信清は岩倉織田家の攻略で信長を支援しましたが、その後、信長と対立します。

そして、信長は永禄7年(1564年)5月、犬山城を6,000の兵で攻め、城下に火を放ったと伝わります。信清は犬山城を明け渡し、甲斐に逃亡しました。

これにより信長は尾張統一を達成したのです。

このときにもし信清が逃亡しなければ、もしかしたら犬山城は攻め滅ぼされていたかもしれません。

犬山城が明け渡されたことによって、犬山城が存続してくこととなったのです。

その一方で、信長の尾張統一は桶狭間の戦いで今川義元に勝利したからとよく言われていますが、実際には犬山城の戦いで信清に勝利したことによって尾張統一を成し遂げたのです。

そういう意味では、犬山城の歴史的な位置づけというのはもっとクローズアップされても良いと思いますけど。

二度目の戦い <小牧・長久手の戦い>

犬山城の二度目の戦いは、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのときです。

本能寺の変で織田信長と嫡男・信忠が横死した後、急速に勢力を拡大しつつある羽柴秀吉に対し、それを阻止せんとする織田信長の次男・信雄(のぶかつ)、そして織田家と同盟関係にあった徳川家康の連合軍が対立します。

織田信雄は信長・信忠が死んだ後、尾張と伊勢を治めていました。

信雄が羽柴秀吉に対して宣戦布告する形で戦いが始まり、大規模戦争へと発展していくのですが、その緒戦は伊勢で起こります。

そして、当時の犬山城・城主は信雄の家老である中川定成です。

中川定成は伊勢で起きた戦のために出陣しており、犬山城は手薄な状態にありました。

そこへ羽柴秀吉方の池田恒興(つねおき)が、犬山城を夜陰にかけてあっさりと落城してしまいました。

これが天正12年(1584)3月13日に起きた小牧・長久手の戦いにおける尾張での戦いの始まりでもあり、秀吉が織田の領内に侵入することになる戦いでもありました。

犬山城は背後を木曽川が流れる立地のため「後堅固」な城と言われますが、この戦いでは木曽川対岸から攻めて落としたと伝わります。

後堅固な犬山城についてはコチラもどうぞ。

小牧・長久手の戦い/犬山城の戦いについては、コチラの記事にも詳しく書いています。

その後、小牧・長久手の戦いは続き、秀吉方の尾張の橋頭保(きょうとうほ)として犬山城は利用されますが、戦火に紛れることはなく戦いが終了しました。

そして小牧・長久手の戦いが講和という形で終了すると、以前と同様に尾張は織田信雄が治めることとなり、犬山城は中川定成が再び城主となるのです。

三度目の戦い <関ヶ原の戦い・前哨戦>

三度目の戦いは、慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いの前哨戦です。

小牧・長久手の戦いを経て、秀吉が関白・豊臣秀吉となり天下統一を果たします。

しかし秀吉の死後、秀吉の5奉行の一人・石田三成と大老の一人・徳川家康が対立し、かの有名な関ヶ原の戦いが起こります。

それを前に、石田三成につくのか、徳川家康につくのかを大名は迫られたわけです。

そして前哨戦が各地で勃発するわけですが、犬山城でも例外ではありません。

当時の犬山城主は石川貞清(光吉)です。

秀吉の旧臣でもあったため、石川貞清は石田三成の西軍に属していました。

しかし、尾張国内でも清洲城の福島正則は徳川家康の東軍についたため、犬山城は西軍の最前線基地となってしまいます。

そのため、美濃国から、郡上八幡城主・稲葉貞道、黒野城主・加藤貞泰、多良城主・関一政、岩手城主・竹中重門らが援軍として犬山城に詰め掛けて守備を固めます。

 ※郡上八幡城:岐阜県郡上市
 ※黒野城:岐阜県岐阜市
 ※多良城;江戸時代は西高木家陣屋:岐阜県大垣市上石津町
 ※岩手城;江戸時代は竹中氏陣屋:岐阜県不破郡垂井町

しかし、家康の重臣である井伊直政による調略によって、それらの援軍の武将が東軍に寝返ったため、犬山城主の石川貞清(光吉)は退去せざるを得なくなりました。

そのため、戦火に紛れることなく開城することになったのです。

もし、石川貞清が頑なに抵抗したならば、犬山城は灰と化していたかもしれません。

その後、戦はなく天守が現存

そして江戸時代を迎え、犬山城は尾張徳川家が治める尾張藩・名古屋城の支城として、しかも尾張藩付家老・平岩親吉の居城として存続します。

さらに、平岩親吉の死後、徳川家康の家臣だった成瀬正成が付家老に任じられ、二代将軍・秀忠より犬山城を拝領。

以後、成瀬家が犬山城を守り、天守が現在まで残っているのです。

しかし、まったくの平穏無事だったわけではなく、天災や太平洋戦争、世の流れなど紆余曲折や廃城・取り壊しの危機を乗り越えながら今まで残ってきたのです。

そのあたりは、また別の機会に記事にしようと思います。

ということで、犬山城に襲いかかった三度の戦についてまとめてみました。

じゃあね👍

2019年03月02日
犬山城マイスター!たかまる。

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