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【第七代・犬山城主】加藤光泰(かとうみつやす)は、小牧・長久手の戦いの間だけの犬山に居た。

小牧・長久手の戦いの最中に、犬山城主の池田恒興が戦死したことで、犬山城を誰に守らせるかが注目されました。

そして、秀吉の命により家臣の加藤光泰が入城することになったのです。

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加藤光泰

小牧・長久手の戦いで天正12年(1584年)4月に池田恒興(当時の犬山城主)が討死。

犬山城は城主不在となりますが、尾張国に攻め入った秀吉方は犬山城の南にある楽田城を本陣としていたため、犬山城は秀吉方にとっては敵国・尾張国における後詰めの城として重要だったはずです。

そのため、秀吉が信頼している家臣を入城させることは至極当然のこと。

その中から加藤光泰が選ばれたのでした。

▲ 戦乱の犬山城下はどんな町だったのだろう

小牧・長久手の戦いが終結したのが同年11月でしたから、4月から11月の7ヶ月ほどの短期でした。

しかし、戦で後詰めの城がいかに重要かがわかっている秀吉ですから、家臣の中から選ぶのは当然のことですね。

加藤光泰がしっかりと犬山城を守ったために、他の武将たちは小牧・長久手の戦いに集中できたのかもしれませんね。

加藤光泰は通称・作内とも呼ばれ、秀吉からの書状には作内と書かれています。

もとは美濃国・岐阜城の斎藤龍興の家臣でしたが、斎藤氏が岐阜城を追われると秀吉の家臣として召し抱えられます。

それからは秀吉のために武功をどんどんとあげていった人です。

●城主データ●

加藤光泰

七代目城主

在位 約7ヶ月:天正12年(1584)4~11月

犬山城歴代城主についてはコチラの記事で。

まとめ

秀吉が信頼しているからこそ、後詰めの犬山城に加藤光泰を入城させたんですね。

ということで、小牧・長久手の戦い後半戦ではしっかりと守られた、犬山城でした。

じゃあね🖐️

2019年04月17日
犬山城マイスター!たかまる。

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