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【小牧・長久手の戦い】 羽黒・八幡林の戦い

天正12年(1584)小牧・長久手の戦いのとき、犬山で起こった激しい戦いがあります。

八幡林の戦いです。羽黒合戦、羽黒の戦いとも呼ばれます。

鬼武蔵と呼ばれた森長可が、徳川四天王のうちの3名、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政らと激突した戦いです。

この戦いについてくわしく見ていきましょう。

まとめてみたい方はこちらで ↑↑↑

【小牧・長久手の戦い】 八幡林の戦い

▲ 八幡林古戦場(写真:たかまる。)

森長可が布陣

天正12年3月16日(1584年4月26日)、美濃金山城主・森武蔵守長可(もりむさしのかみながよし)が兵3,000を率いて出陣し、犬山城から南へ離れた八幡林(はちまんばやし)に布陣しました。

ここに、郡上八幡城主・遠藤慶隆(えんどうよしたか)が森長可の要請を受け600名を引き連れて参陣、羽柴秀吉(はしばひでよし)の家臣である尾藤甚右衛門(びとうじんえもん)が小牧山攻めを提案した森長可の意見を承認し、軍監(軍目付)として共に出撃しました。

当時、八幡林の南側に五条川があったと思われ、川を挟んで北側に陣を置いたと考えられます。

※現在の五条川は、後に流れが変わって今の川筋になったと考えられています。

この辺りは東に山が広がる台地で、当時は松林が一帯に広がっていました。

森長可はこの地形を利用して敵から身を潜め、小牧山城(こまきやまじょう)の近くまで兵を進めるつもりだったようです。

しかし、15日に徳川家康は清須城(きよすじょう)から小牧山城に本陣を移していました。

小牧山城は織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康(とくがわいえやす)の連合軍の本陣としたところです。

そして森長可のこの動きを察知した家康は、ただちに酒井忠次(さかいただつぐ)・榊原康政(さかきばらやすまさ)・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)・松平家忠(まつだいらいえただ)ら5,000を長可の攻撃に向かわせました。

羽黒八幡林の戦い(天正13年3月17日)の布陣図(推定)
羽黒八幡林の戦い(天正13年3月17日)では五条川の南北に徳川軍・森隊が布陣した(布陣は推定)

MEMO
 小牧山城は織田信長が築いた城です。
美濃攻略のため居城を清洲から移しました。
永禄10年(1567)に斎藤龍興の稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略しました。
その後、居城を岐阜城へと移し、小牧山城は廃城となりました。

徳川軍、森軍を急襲

▲ 林の中で戦闘が行われたのか(写真:たかまる。)

17日の夜明けとともに、酒井忠次は一斉に攻撃を仕掛け、森軍の本陣を急襲しました。

不意を突かれた森軍はうろたえ、すぐに陣形が崩れてしまいます。

そこで羽黒まで300 m ほど後退して態勢を立て直そうとしました。

しかし、この動きに森軍の中には敗北かと勘違いするものが出て、逃げ出すものが続出しました。

さらに酒井忠次は、榊原康政らの別動隊を編成して湿地帯を迂回しながら森軍の後方に回り込みます。

そして、奥平信昌らの主力軍とで挟み撃ちにしました。

陣形は徐々に崩れ、やがて完全崩壊しました。

森軍は大敗を喫し、犬山城や居城である兼山城(現在の美濃金山城)に逃げ帰りました。

森長可も撤退し、このときは命を落とすことはありませんでした。

このとき、尾藤甚右衛門は積極的な戦闘をしなかったとして、後に秀吉のお叱りを受けたと言われます。

この勝利を耳にした家康は、深追いは危険だと判断して兵を撤退させました。

森軍の敗北を聞いた池田恒興(いけだつねおき)は稲葉一鉄(いなばいってつ)らとともに3,000の兵を率いて羽黒に進軍しました。

家康も自ら羽黒に兵を進めましたが、戦闘を避けて双方が兵を引きました。

両軍の戦力
 この戦いでの両軍の戦力は

森軍:森長可・遠藤慶隆・尾藤甚右衛門ら3000名

徳川軍:酒井忠次・榊原康政・奥平信昌・松平家忠ら5000名

これが一般的に言われている「八幡林の戦い」です。

記録から八幡林の戦いを見てみる

日記・文書

まず、日記や文書などを時系列で並べると以下のようになります。

3月14日

・池田恒興(羽柴方)が犬山城を攻め落とし、犬山の各所を放火した。「顕如上人貝塚御座所日記」

・池田恒興が小牧山城からほど近い小松寺(小牧市)に制札を与えた。「小松寺文書」

・松平家忠(織田・徳川方)が、桑名(三重県桑名市)へ出陣したが、津島(愛知県津島市)に帰った。「家忠日記」

・酒井忠次(織田・徳川方)が桑名へ出陣した。「家忠日記」

3月15日・酒井忠次が桑名から津島に戻った。「家忠日記」
3月16日・松平家忠が清須近くの落合郷に着陣。「家忠日記」
3月17日

・松平家忠が犬山方面へ攻撃を行った。森武蔵守長可が守っている屋敷を押し破り、敵が敗北。300人余りを討ち取った。家中でも15人を討ち取った。「家忠日記」

・森長可、多人数討ち死に、3、400とも言われる「顕如上人貝塚御座所日記」

(日付が18日となっているが、17日の間違いか)

3月18日・松平家忠が本営の清須へ出仕した。「家忠日記」

3月14日から両軍が犬山・小牧を中心にあわただしく動いてます。

3月17日は結果しかわかりませんが、織田・徳川軍が森軍を打ち破って300余りを討ち取ったことがわかります。

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次に、陣立書を見てみます。

「小牧長久手陣立図」(小松寺所蔵)

▲ 小牧・長久手合戦陣立図(小牧市、小松寺蔵)

※寛政12年(1672)に制作された「御年譜」の挿画として描かれたもの。

・3月17日羽黒合戦

・「尾藤甚右衛門」八幡林「森武蔵守」

・3月17日 家康、犬山表へ、八幡林に森・尾藤甚右衛門3,000、先手酒井、奥平が合戦を仕掛け、家康方の勝利。武蔵守が敗北。家康方が300ほど討ち取った

・酒井忠次、奥平信昌、榊原康政、丹羽氏次、松平家忠、大須賀康高

「小牧御陣御進発之図」(和歌山城管理事務所蔵)

▲ 小牧御陣御進発之図(和歌山城管理事務所蔵)

※享保18年(1733)に制作されたと思われる。

・3月15日

池田勝入が辺りを焼き払う

・3月17日

森長可が青塚の砦にいる。秀吉公の検使・尾藤甚右衛門と3000騎あまりで羽黒近所を放火

・先手4軍/酒井忠次、大須賀康高、奥平信政、丹羽氏次、それぞれ押し出し、森・尾藤は羽黒村を放棄して八幡林の前に構え、小川を隔てて弓矢・鉄砲を放つ。

先手4軍も川端へ押し寄せ、森・尾藤は敗れた。

森の母衣衆・野呂助左衛門が引き返して突入し、松平家信が助左衛門を討ち取った。

野呂の子・助三郎は父が戦死したのを聞いて引き返し、敵2騎を倒して命を落とした。

松平家忠は羽黒にて、森武蔵守の陣営を攻め破って、首15を討ち取った。

・酒井忠次、石川数政、本多忠勝、酒井与四郎、内藤家長、松平好景、石川康道、都合1500騎あまり、小牧山城に留守居

この陣立書は、後年に描かれたものであるため地理や内容に誇張があり、すべてが正しいとは言い切れないのが現状ですが、参考に見てみると雰囲気や描写が伝わってきます。

特に、森軍、徳川軍の武将の名前が書かれていることから、どのぐらいの規模の戦いだったのかが想像できます。

信雄・家康によるプロパガンダ

▲ 現地案内板(写真:たかまる。)

信雄と家康はすぐさま、この勝利を自軍の宣伝に利用しました。

各地の勢力に戦勝報告を積極的にかつ誇張して行い、「織田・徳川優勢」「秀吉勢不利」の世論を作ろうと働きかけました。

いわゆるプロパガンダです。

例えば、徳川家康が下野長沼城主・皆川広照(みながわひろてる)にあてた手紙では、「池田と森の敗北は前代未聞」「敵兵1000を討ち取った」と戦果を書いています。

しかし、家康の家臣・松平家忠(まつだいらいえただ)が書き記した「家忠日記」には、「犬山表へ出て森武蔵守の屋敷を打ち破り、敵は敗北。300余りを討ち捕らえた。」と書かれています。

「顕如上人貝塚御座所日記」でも「多数討ち死、3、400ほど」と書かれています。

つまり、本当は300余り討ち取ったのを「1000」と誇張したのです。

さらには森軍は「前代未聞」の敗北を喫したとし、織田・徳川が優勢であることを誇示しました。

その他にも、大久保忠泰(家康の家臣)が皆川広照に同様の内容の手紙を送ったり、織田信雄が香宗我部親泰に戦況報告したりするなどして、各地へ戦況報告している様子がうかがえます。

この戦いを少しでも有利に、そして各地の大名を味方に取り込もう(もしくは秀吉方に味方しないように)としたことがとてもよくわかります。

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八幡林の戦いの後は、膠着状態となる

織田・徳川軍:

家康は小牧山城の土塁や空堀を大規模に改修し、強固な陣地を築きあげました。

また小牧山城の東側に、秀吉軍の南下を防ぐための蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦、田楽砦などの砦を構えました。

羽柴軍:

天正12年(1584)3月21日、秀吉は大阪城を出陣し、3月27日に犬山城に入城。

3月28日に楽田城(がくでんじょう)に本陣を構えました。

織田・徳川軍の強固な防衛線に対抗するため、小松寺山砦、小口城、内久保砦、岩崎山砦、二重堀砦、青塚砦、外久保砦などの砦を築き、兵を配置しました。

結果:

小競り合いはあったもののそれぞれの守りは堅く、動けば不利ということで膠着状態となりました。

※詳細は別の記事にて。

現在の八幡林古戦場には八幡宮が建てられ、近くには野呂塚がある

▲ 八幡林には八幡宮が鎮座されている(写真:たかまる。)

八幡林古戦場は、今はヒノキ、スギの林に囲まれて羽黒八幡宮神社が建てられています。

古戦場の案内板も建てられています。

林の中で戦闘が繰り広げられたと言われますが、現地に行くとなんだか雰囲気がでています。

さらに、森長可が敗走するときに敵兵を食い止めて討ち死にしたと言われる野呂助左衛門父子を供養する「野呂塚」があります。

八幡林古戦場から名鉄の線路をはさんだ東側です。

また、新郷瀬川に架かっている「合戦橋」は、八幡林の戦いに由来するともいわれています。

八幡林古戦場に訪れたときには、これらのゆかりの地もぜひ一緒に散策してみてください。

森長可を救った野呂助左衛門の逸話

▲ 野呂助左衛門の碑(写真:たかまる。)

森長可が奇襲を受けて敗走するとき、長可の家臣が命を張った物語があります。

その内容は「小牧御陣御進発之図」(和歌山城管理事務所蔵)にも書かれており、後世に語り継がれていたことがわかります。

では、どんな話が残っているのでしょうか?

 森軍は奇襲を受けて陣形は総崩れとなり、もはや森軍の敗戦は明らかとなりました。

そのとき森長可の退却を助けたのが、家臣・野呂(のろ)助左衛門と息子の助三郎でした。

野呂助左衛門は森家の重臣で「知略の豪傑あり」と名が知れていました。また息子の助三郎はこの戦いが初陣でした。

野呂助左衛門は乱戦の中、主君長可が引き上げたことを見届けると引き返し、三尺八寸の大太刀をふるって敵を蹴散らしました。

敵勢の一帯をせん滅して引き上げようとしたところを新手に呼び止められ、ここを死に場所と定めるとさらに敵勢深くに突入して圧倒しました。しかし最後には力尽き、討ち死にしました。

奮死地は、現在の東部中学校のあたりと言われています。

また、息子の助三郎は退却途中でしたが、父が戦死したのを聞いて引き返し、敵2騎を倒すものの大軍の中で命を落としました。まだ19歳だったと言います。

▲ 野呂助左衛門の慰霊祭が毎年行われている(写真:たかまる。)

この野呂親子を祀った野呂塚が八幡林古戦場の近くにあります。

八幡林・羽黒八幡宮神社から名鉄の線路をはさんだ東側です。

大正17年にご子孫が建てた顕彰碑と案内板も建てられています。

いまでも地域の人たちによって毎年供養祭が行われています。

八幡林古戦場インフォメーション

八幡林古戦場は羽黒駅近くに八幡宮となって残されています。

犬山市立羽黒小学校の南にある羽黒八幡宮一帯が古戦場です。

案内板が建てられています。

また、八幡宮の北から東へ向かって名鉄小牧線を越えたところに野呂塚があります。

現況八幡宮、林、野呂塚
場所愛知県犬山市大字羽黒八幡31-4

アクセス

名鉄小牧線「羽黒」駅から南へ約500 m、徒歩約6分

駐車場なし

まとめ

▲ 現地案内板(写真:たかまる。)

天正12年(1584)小牧・長久手の戦いのとき、犬山で起こった激しい戦いがありました。

八幡林の戦いです。

鬼武蔵と呼ばれた森長可が、徳川四天王のうちの3名、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政らと激突した戦いで、森長可は敗退。

この後、両軍が小牧山城と楽田城でにらみ合いになる契機となった戦いでした。

現在では、激しい戦闘が行われたとは思えないようなところですが、古戦場跡が静かに戦闘の激しさを物語っています。

ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?

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