犬山城の東側山麓には東谷曲輪(ひがしたにくるわ)がありました。
さってどんな所だったのでしょうか?
今回は東谷曲輪について解説します。
犬山城・東谷曲輪(ひがしたにくるわ)
犬山城の東側山麓には東谷曲輪(ひがしたにくるわ)がありました。
東西は狭く南北に細長い形をしています。
東側には、犬山城の搦手(からめて)である内田門があり、守りを強固にする必要がありました。
そこで狭いながらも曲輪を作って守りを固めたと考えられる場所です。
縄張り図も書きましたのでそちらも参考に見てください。
また、東谷曲輪という呼び名に関してですが、絵図などでは「東谷」と描かれていますが「東谷」だけではわかりにくいので、筆者はあえて「東谷曲輪」と呼ぶようにしています。
このほうが、曲輪だってことが一発で分かりますから。
東谷曲輪にあった櫓
東谷曲輪にはひとつだけ櫓がありました。
- 丑寅櫓(うしとらやぐら)
これは東谷曲輪の北東隅にある櫓で、二重櫓だったことが古い写真でわかっています。
木曽川の北と東に睨みを利かせる櫓としての役割があったと考えられます。
東谷曲輪にあった門
東谷曲輪には二つの門がありました。
- 東谷埋門(ひがしたにうずみもん)
- 東谷御門(ひがしたにごもん)
- 内田門(うちだもん)
- 榊門(さかきもん)
- 清水門(しみずもん)
です。
東谷御門は東谷曲輪の北、北西にありました。
隣の水の手曲輪との境の門です。
東谷埋門は、東谷曲輪の北、川沿いにあった石垣の間に作られた門です。
内田門は東谷曲輪の中央からやや北側にあった犬山城の搦手に当たる門です。
榊門は松の丸から坂を下ったちょうど山麓にあたるところにあった門です。
清水門は三の丸と東谷曲輪の境にある門です。
マップを作りましたのでそれと合わせて位置関係を確認してみてください。
東谷曲輪の役割
東谷曲輪の役割の一つは内田門と木曽川の警備です。
さらには御殿があった松の丸から下ったところに東谷曲輪があったため、松の丸で有事があった際に城主を守るための場所でもありました。
狭いながらも重要な役割を持った曲輪であるということがわかります。
東谷曲輪の現況
現在、東谷曲輪の中央辺りに郷瀬川が流れています。
この川は犬山城の外堀とよく間違われるのですが、実際には明治になってから人工的に掘削された川です。
外堀を利用して川を作ったわけではなく、東谷曲輪のほぼ中央を流れるように掘削された人工の川です。
そのため東谷曲輪の遺構の大部分は失われてしまいました。
榊門や清水門はちょうど川のあたりにあったものと思われます。
内田門については、現在の名鉄犬山ホテルの敷地内にあったものと考えられます。
東谷御門や東谷埋門も改変されて、遺構はほとんど残っていません。
しかしながら丑寅櫓の石垣と思われるものが一部残っています。
それは彩雲橋のすぐ脇にある石垣です。
巨木が生えていて石垣が押されて”はらんで”いるため、崩れないか心配はありますが、現在も残されているのは大変貴重だと思います。
まとめ
東谷曲輪は細長い形状ですが五つの門と一つの櫓があり、特に犬山城の搦手にある当たる内田門を備えた守りの強い曲輪です。
- 丑寅櫓(うしとらやぐら)
- 東谷御門(ひがしたにごもん)
- 東谷埋門(ひがしたにうずみもん)
- 内田門(うちだもん)
- 榊門(さかきもん)
- 清水門(しみずもん)
がありました。
現在残っている遺構などは少ないですが、丑寅櫓の石垣の一部が残るなど貴重な場所です。
ということで、犬山城の東谷曲輪の解説でした。
じゃあね🖐️
2019年11月11日
犬山城マイスター!たかまる。