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犬山城天守は1585~1588年伐採の木材で建てられたと科学的に証明された、”最古級”の天守

犬山城天守が天正13年~天正16年(1585~1588)ごろ伐採した木材を使用して建てられたと判明しました。

また、一重目から三重目までを一体的に建設したことも明らかとなりました。

2021年3月29日に犬山市が記者会見を行い、科学的検証に基づいた結果として発表しました。

この記事は速報です。

犬山城天守は天正13年~天正16年(1585~1588)伐採の木材を使用して建てられた

犬山城天守_鉄門からの画
▲ 犬山城天守(画像:たかまる。)

犬山城天守に使用されている木材について年輪年代測定法によって調査したところ、伐採した年代が判明しました。

犬山城天守に使用されている木材の伐採時期は天正13年~天正16年(1585~1588)です。

犬山城天守の木材の伐採時期

犬山城天守の木材の伐採時期は、天正13年~天正16年(1585~1588)

まず、天守一階、二階部分の木材の伐採年を1585年と特定しました。

このことから、1585年以降に建てられたことがわかります。

次に、最上階の四階部分の木材の伐採年を1588年と特定しました。

また、柱などの木材の加工痕、特に3階小屋裏の木材の加工痕が一階、二階部分と同様の加工痕であることも判明しました。

これらの結果から、犬山城天守は天正13年~天正16年(1585~1588)に伐採された木材を使用して建てられたことが明らかになったと発表しました。

しかも、専門家による科学的調査によって明らかにされた点は特筆すべきところです。

この調査を実施したのは、名古屋工業大大学院の麓和善(ふもとかずよし)教授奈良文化財研究所の光谷拓実客員研究員です。

【年輪年代測定法】

気象変化に伴って、樹木の年輪は幅が広くなったり狭いままだったりする。このような樹木の年輪成長の変化を利用して年代を特定する測定法を年輪年代測定法という。

樹種による変化は地域差が少ないため、伐採した年が明らかなものを基準にしてパターンを作成してある。

これをもとに、出土した遺物や建築物などの伐採時期を定め、制作年代や建築年代を推定することができる。

犬山城天守は日本最古級の現存天守

犬山城天守_西からの画
▲犬山城天守は最古級の現存天守(画像:たかまる。)

これによって、犬山城天守が日本最古の現存天守であることがわかりました。

現存12天守の創建年代を比較してみましょう。

天守創建年代(推定含む)
犬山城1585~1588年に伐採した木材を使用して建築
松本城1595年ごろ
姫路城1601年
彦根城1606年
松江城1611年
丸岡城寛永年間(1624~44)、1628年が最有力
丸亀城1660年
宇和島城1671年
備中松山城1683年
高知城1749年
弘前城1810年
松山城1854年
現存12天守と天守創建年代(推定含む)

以前は丸岡城天守、松本城天守、犬山城天守が最古の天守と主張を繰り返していましたが、この結果から犬山城天守が日本最古級であると判明したのです。

もちろん、松本城天守は年輪年代法によって創建年代を確定したわけではないので、もしかしたらさらに古い創建かもしれませんが。

犬山城天守は一重目から三重目までを一体的に建てられていた

犬山城天守2階武者走り
▲犬山城天守内部(画像:たかまる。)

上述した調査によって、もう一つ明らかになったことがあります。

それは、天守が一重目から三重目までを一体的に建設していたということです。

天守の建設方法

犬山城天守は、一重目から三重目まで一体的に建設

従来は、まずは一重目と二重目を建設し、その後、三重目を増築したというのが定説(増築説)となっていました。

つまり、増築説が定説でした

しかし今回の結果はそのような増築説ではなく、一重目から三重目まで、つまり最上階までを一体的に建設した(一体建設)ということを表しています。

犬山城天守の構造についてはこちらの記事で詳しく解説しています。

唐破風は元和6年(1620)以降に追加された

犬山城天守の唐破風
▲弓なりのところが唐破風(からはふ)。犬山城天守の表情を決めていると言っても過言ではない。(画像:たかまる。)

天守に使用された木材の伐採時期は特定されましたが、それ以外にも発見がありました。

それは、唐破風がいつ造られたのかということです。

天守の唐破風
  • 唐破風は、元和6年(1620)以降に付加
  • それに伴って大屋根が改修
  • 廻縁・高欄が周囲にめぐらされた

従来だと、元和6年説(1620)と正保年間説(1646)の二つがありました。

しかし今回の調査によって、4階縁の持送りは1620年前後に伐採されたことが推定されたため、唐破風は元和6年(1620)以降に付け加えられ、それに伴って大屋根が改修され、廻縁・高欄が周囲にめぐらされることになったということが明らかとなりました。

従来の説を覆す大発見

調査を行った名古屋工業大学大学院の麓先生、論文執筆を担当した奈良文化財研究所の光谷先生によると、これらの結果を総合して、犬山城天守は天正12年~天正16年(1585~1588)に伐採した木材を使用して一重目から三重目までを一体的に建設したと結論しています。

これは従来の説を覆す大発見であり、日本城郭建築史上、大変有意義な発見と言えます。

天正13年(1585)は小牧・長久手の戦いの翌年です。

つまり、前年の天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いが起こり、犬山城は小牧・長久手の戦いにおける尾張での緒戦の場所にもなりました。

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また、天正13年(1585)は秀吉による越中征伐(富山の役、佐々攻めとも言われる)が行われ、尾張を治めていた織田信雄が総大将として出陣しています。

天正15年(1587)には、秀吉によって九州が平定され、その出陣には織田信雄が見送ったとも言われています。

天正16年(1588)は小田原征伐(北条征伐などともいう)が起こる2年前、いよいよ北条との最終決戦を迎えるというころです(小田原征伐は天正18年(1590))。

天正12年~天正16年(1585~1588)は、織田信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)が尾張を治めていました。

そのときの犬山城の城主は、中川定成、武田清利、土方雄久の3名です。

天守創建時の城主

この中で最も在籍期間が長いのが土方雄久ですし、4階の木材が1588年に伐採されていることを考えると、土方雄久が城主のころに建てられたのが最有力と考えられます。

従来の説とは

従来:増築説

では、従来の説をおさらいしておきましょう。

昭和40年以前は、美濃金山城の天守を移築してきた、いわゆる「金山越し」によって犬山城天守が建てられたとする説が定説でした。

しかし、昭和36年~40年に行われた「昭和の大修理」の際、解体・調査が行われ、城戸久先生によって天文6年(1537)に二重天守が創建され、移築した痕跡は見られないが3重は慶長5年(1600)に増築したと結論されました。(国宝犬山城天守修理工事報告書)

また、西先生によって慶長5年(1601)に二重天守が創建、その後、元和6年(1620)ごろに三重目が増築という説が出されました。(犬山城天守の創建年代について)

重要文化財データベースでもこの説が採用され、慶長5年(1601)に当時の城主・小笠原吉次によってはじめは二重(外の屋根が2段目の大屋根の部分)までが創建され、その後、元和6年(1620)ごろに三重目が増築されたというのが定説となりました。

つまり、従来の説(天文創建説、慶長創建説)は次の通りにまとめられます。

犬山城天守建築方法-増築説
▲犬山城天守は、従来は増築説だった。つまり、二重天守を創建後、三重目を増築、最後に唐破風を増築して廻縁・高欄を付加したというものだ(画像:たかまる。)
年代天文創建説(城戸久先生の説)慶長創建説(西和夫先生の説)
1537年ごろ(天文6年)犬山城築城
二重天守創建
(城主:織田信康)
犬山城築城
1600年(慶長5年)三重目(望楼)増築
(城主:小笠原吉次)
1601年(慶長6年)二重天守創建
(城主:小笠原吉次)
1620年ごろ(元和6年)唐破風増築
入母屋屋根改造
廻縁・高欄付加
(城主:成瀬正成)
三重目(望楼)増築
(城主:成瀬正成)
1646年ごろ(正保年間)唐破風増築
入母屋屋根改造
廻縁・高欄付加
(城主:成瀬正虎)
犬山城天守創建年代の従来説(天文創建説、慶長創建説)

新説:一体建築説

今回の発見によって、新たに以下のようであることがわかりました。

犬山城天守建築方法-一体建築説
▲犬山城天守の建築に関する新説は、一体建築説だ。つまり、三重天守を一体で創建後、後年に唐破風を増築して廻縁・高欄を付加したというものだ(画像:たかまる。)
年代建築方法と年代
1537年ごろ(天文6年)犬山城築城
1585~1588年(天正13年~18年)この頃に伐採した木材を使用して三重天守創建
一重・二重・三重が一体的に建設
(城主:中川定成、武田清利、土方雄久)
1600年(慶長5年)
1601年(慶長6年)
1620年ごろ(元和6年)唐破風増築
入母屋屋根改造
廻縁・高欄付加
(城主:成瀬正成)
1646年ごろ(正保年間)
今回明らかになった犬山城天守の建築方法(天正創建)

唐破風の増築時期については、さらなる研究が必要でしょう。

織田信雄が造らせた可能性=織田の正統な天守

織田信雄像
▲織田信雄像(総見寺蔵、画像:Wikipediaより)

従来の天文創建説、慶長創建説が今回の発見によって否定されました。

徳川家康の四男で松平忠吉が清洲城主となって尾張を治めたときに、小笠原吉次は犬山城主となっていました。

つまり、小笠原吉次が創建したとすれば徳川の城ということになりました。

しかし、今回の発見によって築城者が織田信雄の家臣だったとすると、話は変わってきます。

織田信雄(織田信長の次男)が尾張を治めていたことから、犬山城の改築などについては信雄が指示を出していた可能性が非常に高いのです。

犬山城天守も織田信雄の許可なくして建てることは考えられません。

そのため、織田信雄が信長がはじめて造ったといわれる天守の形を引き継いでいたことは想像できます。

つまり、天守の正統な形として今の犬山城天守が存在するともいえるのです。

余談

ここからはまったくの余談ですが。

信雄が土方雄久に指示を出して天守を創建したとなると、信雄は天守を建造する技術を有していたということになります。

織田信長の次男ですので、信長や家臣たちの築城術と同じ技術はあったでしょう。

また、天正11年(1583)には秀吉も大坂城を築城しています。

天正12年の小牧・長久手の戦いによって秀吉と和睦したとはいえ、織田と羽柴の立場が逆転してしまった出来事でもあります。

現に、天正13年には秀吉は関白に叙任され、その直後に越中征伐に織田信雄が総大将として出陣しています。

つまり、秀吉の配下に信雄が入ったことが明確に示されたわけです。

そんな状況で犬山に天守を創建した意義については、さらに研究しないといけませんが、尾張は織田の領国だと言わんばかりに美濃(犬山城の穂と二に流れる木曽川の川向うは美濃国)へ見せつけるためだったのかもしれません。

これが、小田原征伐後の信雄の改易につながっているのか、関係ないのか。

今回の発見によって、天守の創建だけでなくこれらのことも研究が進むと面白い解釈にたどりつくかもしれませんね。

まとめ

犬山城天守が天正13年~天正16年(1585~1588)ごろ伐採した木材を使用して建てられたと判明しました。

また、一重目から三重目までを一体的に建設したことも明らかとなりました。

2021年3月29日に犬山市が記者会見を行い、科学的検証に基づいた結果として発表しました。

【参考文献】

  • 国宝犬山城天守の創建に関する新発見(犬山市、令和3年3月29日)
  • 国宝犬山城天守修理工事報告書(昭和40年8月)
  • 犬山城天守の創建年代について(日本建築学会論文報告集第261号、昭和52年11月)
  • 図説犬山城改訂版(公益財団法人犬山城白帝文庫、平成30年10月4日)
  • 国宝犬山城天守保存修理工事報告書(犬山市教育委員会、令和2年3月)
  • 織田信雄分限帳(愛知県史 資料編12 織豊2、平成19年3月31日、愛知県)

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