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【第二十四代・犬山城主】成瀬正肥(なるせまさみつ)。激動の幕末・明治維新を駆け抜けた男。

成瀬正肥(まさみつ)が犬山城主のときは、まさに激動の時代。

幕末から明治へと進んでいくうねりの中で、尾張藩付家老としての立場からいかに駆け抜けて行ったのか。

とても興味深い男です。

成瀬正肥(なるせまさみつ)の生い立ち

成瀬正肥(まさみつ)は、天保6年(1835)丹波篠山藩主青山忠良の三男として江戸で生まれました。

初名は忠篤と言いました。

正肥は成瀬に養子なのです。

安政2年(1855)7月、成瀬正住の婿養子となって正肥(まさみつ)と改めました。

同年9月、正住の長女・富と婚礼を挙げ、翌安政3年(1856)に従五位下主殿頭に叙任されました。

安政4年(1857)に家督を継ぎ、隼人正に改めました。

安政5年(1858)に尾張藩14代藩主・徳川慶勝が将軍継嗣問題と条約勅許問題に巻き込まれて大老・井伊直弼から隠居謹慎を命じられ、藩政から遠ざけられました。

のちに復権し、文久3年(1863)の14代将軍・徳川家茂の上洛には前藩主・慶勝とともに入京して朝幕関係の調整に当たりました。

8月に慶勝の子・義宜が尾張藩の家督を継ぐと、再び慶勝-正肥ラインが尾張藩政を掌握しました。

元治元年(1864)従五位上に叙任され、8月には元尾張藩主・徳川慶勝が第一次長州征伐で征長総督となると正肥は補佐役となり出陣しました。

10月26日に大物見として1,150人の兵を率いて京都を進発、11月7日に広島に到着しました。

11月14日には国泰寺で長州藩の家老の首実検を慶勝の名代として実施しました。

慶応元年(1865)1月に広島から帰京しました。

慶応2年(1866)には第二次長州征伐のため、病の慶勝に代わって11月に義宜とともに上洛しました。

江戸幕府から明治新政府へ、そして犬山藩誕生

▲ 正肥は幕末と明治維新の激動をどのように駆け抜けたのか?

慶応4年(1868)1月、太政官から藩屏の列に加えられ、正肥を藩主とする犬山藩が誕生しました。

明治元年(1868)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは慶勝に従って上京していた正肥は参内して南門を警備し、5日には朝廷の命令で慶勝に代わって二条城を接収しました。

24日には朝廷から独立大名として認められ、3月に新政府の参与会計事務局権判事になり、閏4月には京都を進発して尾張に帰国しました。

さらに信濃鎮定のために5,700人の尾張兵を率いて塩尻から甲府に進んで鎮圧にあたりました。

その後、別動隊を含めて信濃、越後、東京の各地に分離した部隊に対して正肥は塩尻を本営として指揮をとり、6月8日に尾張に帰国しました。

明治2年(1869)2月には版籍奉還を願い出て、6月には犬山藩知事に任じられました。

一方、王政復古の功労により正五位に叙せられ、永世禄5百石を賜りました。

明治4年(1871)7月、廃藩置県により知藩事を免じられて東京へ移りました。

華族制度発足後の明治17年(1884)に男爵、同18年(1885)には勲四等、同20年(1887)に従四位、同24年(1891)4月23日に子爵、同25年(1892)に正四位、同36年(1903)に正三位勲三等と叙任されたが、同年東京で死去しました。

濃尾大震災ののちに、天守を個人で所有する唯一の存在に

明治24年(1891)10月28日、濃尾地方で大震災が発生します。

いわゆる濃尾大震災です。

これにより犬山城は天守が半壊するなどの壊滅的ダメージを追いました。

当時の所有者である愛知県は、他の復興が急務であることを理由に、犬山城天守を成瀬正肥に譲渡することにしました。

これが全国唯一の個人所有の天守誕生の瞬間です。

その後、正雄(1903~1949)、正勝(1949~1973)、正俊(1973~2004)と受け継がれ、2004年(平成16)に公益財団法人犬山城白帝文庫の所有となり、現在に至ります。

理事長は正俊さんの娘の成瀬淳子さんです。

第二十四代・犬山城主のデータ

成瀬正肥(なるせまさみつ)

二十四代目城主(成瀬家九代城主)

在位 約14年:安政4年(1857)~明治2年(1869)

犬山城歴代城主についてはコチラの記事で。

まとめ

ということで、激動の中を駆け抜け、犬山藩として独立させた二十四代犬山城主・正肥をご紹介しました。

じゃあね🖐️

2019年05月09日
犬山城マイスター!たかまる。

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