八代将軍徳川吉宗(よしむね)と七代尾張藩主徳川宗春(むねはる)の対立は有名ですが、そのときに尾張藩の付家老だった男が、二十代目犬山城主・正太(正泰)です。
付家老として幕府と尾張藩の間で奔走し、難局を乗り越えたと言われています。
そんな正泰は、絵画が大好きな男でした。
成瀬正泰(なるせまさもと)の生い立ち
成瀬正泰(まさもと)は、宝永6年(1709)成瀬正幸の長男として「名古屋」で生まれました。
享保11年(1726)に御用向き見習いとなり、政務に携わるようになりました。
同17年(1732)2月、年寄を仰せ付けられ、知行地2千石、合力金2百両、同心9騎を預けられました。
しかし、享保17年8月に正幸が隠居したため家督を相続し、12月には従五位下隼人正に叙任されました。
将軍・吉宗と尾張藩主・宗春の対立の間で
▲ 将軍と藩主の間で板挟みになるというのは生きた心地がしなかったでしょうね。
八代将軍徳川吉宗(よしむね)と七代尾張藩主徳川宗春(むねはる)の対立の中、付家老として幕府と尾張藩の間で奔走し、難局を乗り越えたと言われています。
明和5年(1768)に隠居し、天明5年(1785)名古屋で死去しました。
正泰は若いころから絵画に熱心で、隠居後は絵画の世界に没頭したと言われます。
また、書や和歌にも長けていたようです。
初めの実名は正太でしたが、天明元年(1781)に九代尾張藩主徳川宗睦(むねむつ)の嫡男に五郎太が誕生したことにより、遠慮して晩年に正泰と改めました。
第二十代・犬山城主のデータ
成瀬正泰(なるせまさもと)
二十代目城主(成瀬家五代城主)
在位 約36年:享保17年(1732)~明和5年(1768)
犬山城歴代城主についてはコチラの記事で。
まとめ
ということで、八代将軍吉宗と七代尾張藩主宗春の対立の中での立ち居振る舞いは大変だったであろう二十代犬山城主・正泰をご紹介しました。
じゃあね🖐️
2019年05月03日
犬山城マイスター!たかまる。