【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】 当時の犬山城の姿。




 

現在、犬山城天守は国宝に指定されています。

そして、2018年には一帯が犬山城跡として、国史跡に指定されました。

 

でも、今の犬山城は1600年前後から江戸時代・成瀬氏が城主のときに、近世城郭として整備されたものと考えられています。

では、小牧・長久手の戦い当時の犬山城はどんな感じだったのでしょうか?

 

攻め落としたであろう方角からの犬山城の眺め

現在も天守が現存しており、しかも国宝のため調査もなかなか本格的にできていない状況です。

国史跡に指定されたため、今後、保存活用計画が策定されて順番に調査や整備がされていくと思われますが、まだまだわからないことが多いのです。

資料を色々と探してみたのですが、なかなか手がかりがありません。

でも、そんなことで諦めてはつまらない!

数少ない文献から推測してみたいと思います。

まぁ、素人がやることなので間違っていても大目に見てくださいね(笑)

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犬山城下の規模(1584年前後)

まず、織田信雄分限帳から城下の規模を推測してみます。

織田信雄分限帳は、天正13年(1585)に作成されたもので、小牧・長久手の戦いのあとに織田信雄が尾張を統治するにあたって、知行の割り当てを再度行ったものです。

なので、これを見ていくと犬山がどのぐらいの都市だったかが見えるはずです。

犬山城主・中川定成の項を見てみると、「本知」・「当知」合わせて28,880貫の知行高となっています。

記載の知行地は7ヶ所で、合計7,879貫です。

これが「当知」、すなわち知行替え後の替地のことですね。

ということは、残りの15,000貫が「本知」、すなわち犬山だと考えられます。

分限帳に「犬山」との記載はなく空白地になっていますが、犬山城主・中川定成に一円的に与えられていたと考えられます。

ここで、規模を計算するために、貫高制を石高制に換算してみます。

1貫=2石とすると、犬山一円は30,000石となります。

1石は、1年間に1人が食べるお米の量。

お米1石=1,000合=150キログラム。

今のお金に換算して、お米10キログラム=5,000円とすると、1石=75,000円となります。

とすると、犬山30,000石=22.5億円が収入という計算になりますね。

1万石の領地では、人口は1万人、武士は500人ほどと言われています。

ですので、犬山3万石では人口3万人、武士は1,500人程度かなぁと。

まぁね、あくまでも推測なので正確ではないかも知れませんが、規模を把握するには十分です。

現在の犬山市は、人口 74,800人、歳入 400億円です。

ということは、現在の5分の2の人口だったということですよね。

これって、結構な大きさですよね。

織田信雄分限帳より抜粋。 小牧・長久手の戦いの翌年(天正13年)のもの

犬山のポジション

天正12年(1584年)当時、織田信雄の有力家臣が居城した尾張国内の城館として、犬山城を始め17ヶ所あったと考えられています。

戦国城下町の研究の結果、これらは領国内に6~10キロメートルの間隔で分布し、清須がその中心になっていました。

ちなみに、清須城は織田信雄の居城です。

すなわち、信雄時代には領国内のほぼ中心に位置する城下町清須を頂点として、中心集落網が形成されていたのです。

その中にあって、犬山はどのようなポジションにあったのでしょうか?

まずは地理的に見てみると、北側に木曽川が流れる天然の要害です。

川を挟んで美濃国と接しているため、信雄領内でも重要な城だったと考えられます。

つぎに、信雄分限帳を見てみると、中川定成は22,880貫、そのうち犬山は15,000貫を与えられています。

他の有力家臣で、多くても天野雄光 15,690貫、水野忠重 13,000貫などです。

つまり、中川定成は筆頭家臣であり、犬山は最も大きい領土として与えられていたと考えられます。

犬山は信雄にとって重要な城であり、最も信頼の置ける重臣・中川定成を配置していたのでしょう。

後堅固な犬山城だが、小牧・長久手の戦いで
木曽川から攻められて落城した。

小牧・長久手の戦い当時の犬山の姿

残念ながら、当時の犬山城の姿を記述した資料はほとんど存在しません。

それでも、当時の姿を推測している文献があります。

それによると、当時は現在の犬山城の位置に曲輪が整備され、山腹の横堀、堀切によって曲輪群が一体化し、さらに、城下には一重の惣構えが設けられていたと考えられます。

今後の調査によってはこれが覆される可能性もありますが、現在の成果ではこのような考えです。

惣構えは、当時の信雄の支城である黒田城、松ノ木城、竹ヶ鼻城、蟹江城などでも見られているもので、犬山城も惣構えを持つ城下町が存在したことは間違いないでしょう。

そう考えると、江戸時代の城郭、城下町の基本的な部分は天正12年(1584)当時には、ほぼ出来ていたと考えても良いと考えます。

天守については、創建年代がはっきりしていないのが現状ですが、当時天守があったとしても現在の天守より小さかっただろうことは確かだと思います。

天守までいかないまでも、櫓や城館があったことは確かだとは思いますが。

それに、天守の創建年代を調査する動きもあるようです。

調査・研究が進むことを楽しみに待ちましょう!

城とまちミュージアムにあるジオラマは秀逸だ!

このように、当時の尾張を統治していた織田信雄にとって犬山は非常に重要な位置づけだったのです。

なのに、秀吉方の池田恒興に攻め落とされてしまいました。

そのショックといったら計り知れなかったでしょうね。

参考文献

●犬山市史 通史編上、平成9年11月25日、犬山市

●愛知県史 資料編12 織豊2、平成19年3月31日、愛知県

●図説 犬山城、平成26年3月31日、公益財団法人 犬山城白帝文庫

●郷土文化 第49巻第1号、平成6年8月15日、名古屋郷土文化会

●「尾張国における織豊期城下町網の構造 ―織田信雄期の支城を中心にしてー」、中世城郭研究論集、1990年5月25日、村田修三編、新人物往来社

●「天正12年の東海戦役(小牧・長久手の戦い)における秀吉・信雄・家康の城郭戦略」、豊臣の城―戦争・政治と城郭―、2003年8月25日、白峰旬著

●国宝犬山城 ―三度の戦争を生き抜いた城―、2011年(平成23年)、犬山教育委員会 歴史まちづくり課

●「戦国期城下町の構造」、日本史研究 257巻、1984年1月20日、日本史研究会

●「織豊系城郭の構造 ―虎口プランによる縄張編年の試みー」、史林 第70巻第2号、1987年3月1日、史学研究会

●日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜、昭和54年6月15日、新人物往来社

●戦国城下町の研究、昭和60年9月27日、小林健太郎著、大明堂

●「犬山城天守の評価をめぐって ー過去の天守をめぐる評価と課題―」、高田徹著、愛城研報告 第13号、2009年8月、愛知中世城郭研究会

●「犬山城の瓦について ―特に桐紋瓦を中心としてー」、高田徹著、愛城研報告 第2号、1995年3月31日、愛知中世城郭研究会

ということで、小牧・長久手の戦い当時、犬山は尾張で清洲に次ぐ規模の城郭都市だったかもね、というお話でした。

じゃあね👍

2018年12月15日
犬山城マイスター!たかまる。

– 写真はすべて、たかまる。が撮影したもの、または使用を許可されたものです。
– 図はすべて、たかまる。が描いたものです。
– 著作権などはすべて、たかまる。が所有しています。無断使用などは固くお断りします。

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