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中川定成(なかがわさだなり)【小牧・長久手の戦い】

中川定成(なかがわさだなり)

ときの犬山城主で、織田信雄の重臣。
伊勢へ出陣中、池田恒興に犬山城を奪われてしまう不運の男。
この戦いの後に犬山城主に返り咲き、信雄の筆頭家老として領国経営を支えた。
年齢不詳。

中川定成という男

氏名中川定成(なかがわさだなり)
生誕不詳
死没不詳
別名雄忠、勘右衛門

織田信雄の家臣。

もとは商人であるが大名となり、犬山城主となったと伝わる。

中川定成については確かな史料が少なく、不明なことが多い。

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中川定成 略年表

年月出来事
天正10年
(1582)
尾張の国主になった信雄より犬山城を拝領し犬山城主となる。
(在位 約3年:天正10年~13年(1582~1585))
木曽川向こうの鵜沼城も支配下に置いたとされる。
天正10年7月17日
(1582)
織田信雄、尾張国津島の医師若山与三に、定成のキズを治療するよう依頼する。(注1)
同年9月丹羽郡の瑞泉寺に禁制を掲げている。(注2)
「織田信雄分限帳」によれば、12,880貫文の大身であった。(注3)
天正11年
(1583)
賤ケ岳の戦いの後、信雄より遣わされ、信孝に自殺を勧める(武家事紀)。
同年、尾張検地で奉行を務める。(注4)
天正12年3月6日
(1584)
信雄が三家老(津川雄光(義冬)・岡田重孝・浅井長時)を誅殺したため、定成が筆頭格となる。
同年3月初旬秀吉勢が伊勢に侵攻してきたため、佐久間信栄(正勝ともいわれる、蟹江城主)、山口重政(佐久間信栄の家臣)等とともに伊勢・峰城の守備のために出兵する。
同年3月13日定成の留守を狙われ、池田恒興に犬山城を奪取される。
同年3月14日伊勢・峯城に援軍し、蒲生氏郷らと対戦
同年11月秀吉信雄の講和条件に、人質として提出すべき重臣5人の一人に定成が挙げられる。(注5)
同年11月小牧・長久手の戦い終結後、犬山城が信雄に還されたため定成も犬山城主に戻る。
天正13年
(1585)
尾張検地で奉行を務める。(注4)
同年6月信雄に従って上京。信雄の供をして大坂へ行き、6月12日に催された津田宗及の茶会に出席(宗及記)。
同年8月26日信雄に従って越中攻めに参陣。
家康より信雄の陣中見舞いが定成ら重臣5人宛に送られる。(注6)

小牧・長久手の戦いでの討死説は間違い

中川定成は、天正12年3月初旬に伊勢・峰城の援軍のために伊勢に出陣します。秀吉方の池田恒興がその留守を狙って3月13日に犬山城を奪取します。

その知らせを聞いた中川定成は3月14日、急ぎ犬山に帰ろうとしたのですが、その途中に池尻平左衛門という男に殺されたと伝わります。

このことは、尾州丹羽郡犬山城主附、張州府志、尾濃葉栗見聞集、犬山視聞図会、犬山城主考、犬山、犬山城沿革、犬山城物語、犬山市資料 第三集、新鵜沼の歴史、くさの井史、戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争などに書かれています。

「定成を伊勢に出動せしめ、峯の古城を修理し、・・・(中略)・・・。定成は犬山城の悲報を聞き急ぎ帰らんとする途中、木曽川通り秋江の渡りを越した所で、私憤を有する池尻平左衛門の為に殺された。」(犬山市資料 第三集)

「犬山城の城主・中川勘右衛門は、伊勢の峯城へ出陣していた。しかし、中川勘右衛門が峯城を出て長島城から犬山へ引き返す途中のことであったが、池尻平左衛門の部隊と遭遇して戦闘になり、中川勘右衛門、池尻半左衛門ら双方とも戦死してしまった。」(新鵜沼の歴史)

「・・・退路を断たれた中川雄忠は、居城犬山へ帰る途中、池尻平左衛門に殺される。」(くさの井史)

「信雄は峰城を防衛上の拠点と考え、重臣で、尾張の支城主クラスの武将を峰城に送っていた。その一人が犬山城主の中川雄忠だったのである。しかし、峰城は防戦むなしく、3月14日陥落し、中川雄忠は敗走途中殺され、・・・」(戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争)

しかし、略年表でも示した通り11月、天正13年6月、8月に定成の足取りが見えます。

さらに天正13年に信雄による検地で中川定成は犬山城以下の知行を与えられ、かつその検地には定成も奉行として仕えているのです。

これらのことから、

伊勢から犬山への帰路で池尻平左衛門に殺されたというのは誤りである

と判断できます。

つまり、中川定成は小牧・長久手の戦いでは討死していない!というのが正しい。

これについては、犬山市史にも次のように書かれていることから間違いないでしょう。

「中川定成は加勢に向かった北伊勢の峰城落城後、犬山占拠を知って引き返す途中、私怨のため池尻平左衛門に討たれたとする。しかし、このことは戦後の「信雄分限帳」に池尻氏とともに定成が記載されている事実に合わない。」(犬山市史)

注釈

中川勘右衛門疵者然々共無由申越候、炎天之時分可為苦労候へ共、早々罷越、療治之事頼入候、謹言、
(天正十年)七月十七日  信雄(花押)  若山殿

(張州雑志77)
(愛知県史 資料編12織豊2)

禁制 瑞泉寺
一 当寺於境内不可殺生事
一 伐採山林竹木事
一 山林幷屋敷境可為如前々事
一 溜之内寺僧之外不可有出入事
一 当寺於境内不可放牛馬事
右条々於違犯之輩者、可処」厳科者也、仍如件、
天正十年九月▢日  定成 書判

(犬山市史 資料編三 考古、古代・中世)

▢▢[一 弐]万弐千八百八拾貫  本知・当知共  中川勘右衛門(定成)
  千八拾[九]貫  このつほ(春日井郡九之坪)
  四百貫      たらか (春日井郡田楽)
  七百貫      と山  (春日井郡外山)
  弐百貫      下すゑ (春日井郡下末)
  弐千五百貫    北伊勢横郡深矢部郷 (桑名郡)
  弐千貫      知多郡野間其外
  此内 八百九拾五貫三百廿文 上野間之郷、弐百貫 坂田 常滑之内
     五百四拾八貫七文   加木やノ郷
     弐百廿貫文      名和之郷、百八十貫 姫島内

(愛知県史 資料編12織豊2)
(「織田信雄の尾張・伊勢支配」、戦国期権力と地域社会)

織田信雄分限帳記載の給地に「勘右衛門縄」と検地担当者名が注記されている。

例えば、
一 参百貫文   安中(伊藤惣十郎)
  たばたの郷内 (春日井郡田端)
  まへくま針郷内(愛知郡前熊針)  勘右衛門縄

と記載されている。

(愛知県史 資料編12織豊2)

秀吉が伊木忠次に、信雄・家康との講和の条件を知らせる書状。この中に人質として中川勘右衛門が含まれている。

如此申遣候処、家康儀頻懇望候間、人質請取相済候、可被得其意候、態申遣候、
(中略)
一 人質覚、信雄御実子幷源五郎殿実子・滝川三郎兵衛尉(雄利)・中川勘右衛門尉(定成)・佐久間甚九郎(正勝)・松庵(雑賀)以下、何も実子又ハ母出人質、何様ニも可為秀吉次第由、被出誓帋事
(中略)
(天正十二年)十一月十三日 秀吉(朱印)
伊木長兵衛尉殿

(犬山市史 資料編三 考古、古代・中世)

譜牒余録 巻56に、家康が信雄の陣中見舞いとして中川勘右衛門ら重臣5人あてに書状を出したことが書かれている。

(譜牒余録)

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関連記事

参考文献

  • 織田信長家臣人名辞典(谷口克広著、吉川弘文館、1995) amazonで買う 楽天で買う
  • 尾州丹羽郡犬山城主附
  • 張州府志
  • 尾州丹羽郡稲木庄犬山城初築之来由 歴代之城主
  • 雑話犬山旧事記
  • 尾濃葉栗見聞集
  • 犬山視聞図会
  • 犬山里語記
  • 尾州犬山城主記
  • 犬山城主考
  • 尾張志
  • 犬山
  • 犬山城沿革
  • 犬山城物語
  • 犬山市史 通史編上(平成9年11月25日、犬山市教育委員会・犬山市史編さん委員会)
  • 犬山市資料 第3集(昭和62年9月、犬山市教育委員会・犬山市史編さん委員会)
  • 愛知県史 資料編12 織豊2(平成19年3月31日、愛知県)
  • 新鵜沼の歴史(平成23年4月20日、梅田薫著、鵜沼歴史研究会)
  • 信長犬山美濃を平定(平成8年9月1日、梅田薫著、美濃文化財研究会)
  • 戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争(2006年10月1日、大和田哲男著、吉川弘文館)
  • 尾張志 下巻(昭和54年7月23日 復刻出版、愛知県郷土資料刊行会)
  • くさの井史(昭和54年6月、くさの井編さん委員会)
  • 長久手町史 資料編6 中世 長久手合戦資料集(平成4年10月1日、長久手町役場)
  • 加藤益幹「織田信雄の尾張・伊勢支配」(戦国期権力と地域社会、昭和61年1月20日、吉川弘文館)
  • 譜牒余録(国立公文書館内閣文庫)

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