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池田恒興(いけだつねおき)【小牧・長久手の戦い】

池田恒興(いけだつねおき)

この男が、小牧・長久手の戦いの流れを大きく変えた。
一つは、「犬山城の戦い」を仕掛けて犬山城を奪取。主戦場が尾張へと移った。
もう一つは、「三河中入り作戦」で岡崎へ向けて進軍するも長久手の戦いで撃破されて討死。
信長亡き後、もがいて散った。
当時 48歳(推定)。

池田恒興という男

氏名池田恒興(いけあつねおき)
生誕天文5年(1536年)
死没天正12年4月9日(1584年5月18日) 享年49
改名恒興、勝入(号)
別名勝三郎、紀伊守(通称)、信輝(ただし、文書にはあらわれていない)
両親父:池田恒利、母:養徳院
元助、輝政など

小牧・長久手の戦い当時は48歳。

美濃を領有して、大垣城を居城としていた。

嫡男・元助は岐阜城、次男・輝政は池尻城を居城としていた。

この戦いでともに散った森長可は婿。

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池田恒興 略年表

画像:池田恒興像(林原美術館蔵)
池田恒興像(林原美術館蔵)
年月出来事
天文5年
(1536年)
織田氏家臣・池田恒利の子として誕生したと言われる。
出身地は諸説あるが、尾張が有力である。
母は養徳院で、織田信長の乳母でもある。後に信長の父の織田信秀の側室となっている。
幼少の頃から小姓として織田氏に仕えた。
信長と共に桶狭間の戦い、美濃攻めなどで戦っている。
元亀元年4月
(1570)
越前攻めに従軍。
同年6月小谷攻めに従軍。
姉川の戦いに従軍。丹羽長秀とともに家康軍の加勢となり、朝倉軍と戦った。
さらに、比叡山焼き討ち、長島一向一揆、などに参陣。
その後、信長の嫡男・織田信忠の配下に入る。
同年犬山城主となって1万貫を与えられた。
天正元年
(1573)
槙島城の戦いに従軍。
天正2年
(1574年)
東濃の小里城に入り、武田勝頼に奪われた明智城の押さえとなった。
天正6年11月
(1578)
有岡攻めに従軍。子の元助・輝政を連れて、初めは倉橋郷、のちに川端砦の定番を務める。
天正8年
(1580年)
摂津花隈城を攻め、籠もる荒木村重を破る。
武功が認められ、摂津を領して兵庫城を築く。
天正10年3月
(1582年)
織田・徳川連合軍による甲州征伐では摂津の留守を守るよう信長から命令されたが、息子二人を出陣させる。
同年6月2日本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流。
同年6月13日山崎の戦いで、兵5,000を率いて光秀を破る。
戦後、織田信孝・羽柴秀吉・丹羽長秀らとともに入京。
同年6月27日清洲会議に、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀とともに織田家の宿老として列席。
秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立して柴田勝家らに対抗。
領地の再分配では摂津国のうち大坂・尼崎・兵庫の12万石を領有した。
自身は大坂城、嫡男・元助は摂津伊丹、次男・輝政は尼崎に配置した。
同年10月28日京都本圀寺で秀吉・長秀・恒興による会談が行われる。
織田家督を三法師から信雄に交代させる話し合いだったと思われる。
天正11年4月
(1583年)
賤ヶ岳の戦いが起こるが、参戦していない。
同年5月25日美濃国のうち13万石を拝領。大垣城主となる。
嫡男の池田元助が岐阜城、次男・輝政が池尻城に入る。
摂津二郡は安堵。
天正12年3月
(1584年)
織田信雄羽柴秀吉に宣戦布告。小牧・長久手の戦いが勃発。
池田恒興や森長可の去就が注目され、織田家宿老として信雄を嫡流として擁立していたため信雄方につくと思われたが、秀吉方として参戦。
秀吉より戦に勝利した際には尾張一国を約束されていた。
同年3月13日犬山城の戦い
秀吉軍が伊勢に侵攻したのに対抗して信雄軍は尾張の家臣を伊勢に集結させたため、恒興が手薄となった犬山城を夜陰に乗じて攻め落とした。
これが尾張での緒戦となる。
犬山城を拠点に小牧山城の信雄家康軍と対峙。膠着状態となる。
同年4月6日三河へ進軍。
徳川家康の領地である岡崎を目指し、先方を務める。
恒興の娘婿である森長可が二番手、堀秀政が三番手、三好秀次が殿を務める。
同4月9日岩崎城の戦い。
丹羽氏を打ち破り岩崎城を奪取。
秀次隊が徳川軍に攻撃されたとの報を聞き、急ぎ北上して信雄家康軍と長久手で激突(長久手の戦い)。
この戦いで森長可と共に戦死。
永井直勝の槍を受けて戦死したといわれている。享年49。
嫡男・元助も共に討ち死にし、家督は次男・輝政が相続。
のちに輝政は初代姫路藩主となり、姫路城の大規模修築を行った。
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参考文献

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