犬山城を中心に信長の足跡をたどってみたら、美濃攻略の戦略が見えた!

織田信長の行動を知るうえで欠かせない一級資料として『信長公記』に、犬山城が何度か登場します。

今回はそれを辿っていきながら、犬山城の戦略的意義を探っていきたいと思います!

犬山城を中心に信長の足跡をたどってみたら、美濃攻略の戦略が見えた!

織田信長の行動を知るうえで欠かせない一級資料として『信長公記』に、犬山城が何度か登場します。

今回はそれを辿っていきながら、犬山城の戦略的意義を探っていきたいと思います!

永禄6年(1563年)ごろの犬山城周辺

犬山城は戦略的に意義があります。

それを見ていくため、織田信長が尾張を駆け回っていた時代の周辺の位置関係を確認しましょう。

織田信長は、居城を清洲城から小牧山城に移し、東美濃から斎藤龍興(さいとうたつおき)の居城である稲葉山城を攻め落とそうとしていました。

信長公記に登場する犬山城

織田信長は尾張を統一して、美濃を攻め落とし、そして安土へ行きます。

その過程において信長の行動を知るうえで欠かせない一級資料に『信長公記』(しんちょうこうき)があります。

ここに、犬山城が何度か登場しますので追って見ていきましょう。

小牧山に築城し移転

永禄6年(1563年)清洲より小牧山に移転。

小牧山に城がどんどん出来ていくのを見て、敵方は於久地城が小牧山の城から見下ろされることになり、守り切れないと判断して城を明け渡し、犬山の城へ合流して立て籠った。(信長公記より)

※犬山城主=織田信清

【解説】

永禄6年、信長は尾張をほぼ統一していますが、犬山城城主・織田信清(信長の従兄弟)が反抗していました。

信長は小牧山に新たに築城し、居城・清洲から移転しました。

その築城を見て、犬山城の支城である於久地城(小口城)の城兵は見下ろされることになり、恐れをなして犬山へ逃げていきました。

犬山城では信長の攻めに対抗しようと立て籠りました。

犬山城両家老の忠節

この頃、犬山城家老・和田定利(黒田城主)、中島豊後守(於久地城主)、この二人が信長に味方する旨を、丹羽長秀を通じて申し入れてきた。この二人の手引きで、丹羽長秀は犬山へ攻め込み、城をはだか城にした。四方から鹿垣を二重三重に結い巡らして犬山城を包囲し、警固に当たった。(信長公記より)

【解説】

犬山城・織田信清の家老である、黒田城主の和田定利、於久地城主の中島豊後守が信長に味方すると申し出がありました。

そのおかげで犬山城攻めを推進することができました。

犬山城を囲み、近くの町や寺を焼き払いました。

そして犬山城主・織田信清は逃げ出し、犬山城を開城しました。

これで、信長は本当に尾張を統一したことになります。

伊木山に居陣

信長は、木曽川を超えて美濃の国へ侵攻した。敵城宇留摩城(城主=大沢基康)、猿啄城(城主=多治見修理)、両城は木曽川に接近して、犬山の川向こうに並んで持ちこたえていた。一方の城から十町、他方の城から十五町離れたところに伊木山という高山がある。信長はこの山に登って砦を堅固に造り、両城を見下ろして居陣した。宇留摩城はすぐ近くに陣を構えたので、とても守り切れないと判断して城を明け渡した。猿啄城は、城の上の大ぼて山に丹羽長秀が先駆けで攻め上り、給水路を占領した。猿啄城はたちまち破綻し、城兵は降参して退去した。(信長公記より)

【解説】

犬山城の木曽川を挟んだ北西に伊木山があります。

そこは伊木忠次が伊木山城として堅固に守っていました。

伊木山城の上手には宇留摩城(鵜沼城)、さらに上手には猿啄城がありました。

この辺りは美濃・稲葉山城(岐阜城)の斎藤龍興(さいとうたつおき)の支配下にあり、信長に対抗していました。

しかし、犬山城、伊木山城が信長方になったことで宇留摩城は対抗できなくなり、城を明け渡しました。

さらに猿啄城には丹羽長秀が攻めこみ、城兵は逃げ出しました。

現代語訳『信長公記』が秀逸

私が参考にした信長公記は新人物文庫の「現代語訳 信長公記」です。

原文を読むのが一番ですが、むかしの文字を読むのは難しいので現代語訳があって助かります。

読みやすいですし、注釈もついていますので理解するのに大変役立ちます。

ご参考にどうぞ。

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信長の尾張統一は、永禄7年の犬山城の戦いに勝利して完結!

桶狭間の戦いで今川義元を討って尾張を統一したとか、小牧山城を築城して尾張を統一したと言われることがよくありますが、違います。

犬山城から織田信清を追い出して尾張統一を果たすのです。

詳しく見ていきましょう。

桶狭間の戦いは永禄3年(1560年)のこと

まずは桶狭間の戦いについてです。

遠江の今川義元が三河に侵攻してきたのに対し、織田信長も徹底的に対抗して今川義元を討ち果たしたのが桶狭間の戦いです。

永禄3年(1560年)5月のことと伝わります。

これも信長公記に書かれていることです。

小牧山城の移転は永禄6年(1563年)のこと

▲ 小牧山城の模擬天守

信長が小牧山に城を築き移転したのは永禄6年のことです。

つまり、桶狭間の3年後ということです。

その後、犬山城を攻め落としにかかります。

犬山城落城、そして尾張統一。永禄7年(1564年)のこと

▲ 犬山城を攻め落としたのが永禄7年

さきほども書きましたが、小牧山城を築城すると犬山城の支城である於久地城(小口城)の城兵は恐れをなして逃げ出し、犬山城に立て籠りました。

そして犬山城を完全に包囲し、犬山城主・織田信清は退去。

これが永禄7年の「犬山城の戦い」です。

犬山城、廃城の危機! 襲いかかる戦、そして三度の落城 ー 信長の尾張統一戦、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い・前哨戦

尾張統一は永禄7年に完結

ということで、信長による尾張統一は永禄7年(1564年)の「犬山城の戦い」に勝利して完結したというのが本当のところです。

そしてここから、信長の美濃攻めが始まります。

また、犬山城を後詰の城として、美濃攻めの足掛かりを得たことになります。

※後詰の城:先陣に対する控えの城。後陣。

美濃攻略のため、犬山城は後詰の城として重要だった!

尾張を統一した信長は、東美濃の城=宇留摩城(鵜沼城)、猿啄城、堂洞城を次々と攻略していきます。

これらの攻略についても『信長公記』に書かれていますので、一度目を通すと面白いと思います。

東美濃を抑えた信長は、ついに稲葉山城・斎藤龍興との最終決戦に挑みます。

東美濃制圧。犬山城を後詰の城として

▲ 猿啄城遠景。宇留摩城に続いて猿啄城を攻め落とした

東美濃攻略の最後が堂洞城ですが、これが永禄7年9月末のことです。

まずは宇留摩城、そして猿啄城。最後が堂洞城です。

これら3城の攻略には犬山城を後詰の城として使ったと思われます。

美濃はいまだ敵国ですので、尾張と美濃の国境にある犬山城を後詰の城として使うのは当然のことでしょう。

信長公記には記述が出てきませんが、位置的に間違いないと思います。

各務野で斎藤龍興との対峙。犬山城を後詰の城として

永禄9年(1566年)、信長は木曽川の大河を渡り、美濃国加賀見野(各務野=いまの岐阜県各務原市)に軍勢を終結させました。

敵の斎藤龍興も新加納(各務原市那加)に軍勢を出撃させて対峙しました。

このとき戦闘には及ばず両軍撤退したようですが、各務野まで押し出した時も犬山城が後詰の城として使われたと思われます。

稲葉山城攻略。犬山城を後詰の城として?

▲ 尾張統一から美濃制圧まで3年、桶狭間の戦いから7年の月日がたった

永禄10年(1567年)、信長はついに稲葉山城を攻略。斎藤龍興を退けることに成功しました。

尾張統一から3年後のことです。

このとき犬山城が後詰の城として使われたかは不明です。

どこから攻めたのかも「信長公記」には記載がなく、位置的にも犬山城から岐阜城までは15㎞ほどあるのでその間に陣を敷いていることは容易に予想できるからです。

しかし、国境の重要な城であることには間違いありません。

墨俣城から稲葉山を攻略したのではない!

ここで注目したいのが、従来言われている(いまは言われていないかもしれないけど)墨俣城から稲葉山城を攻略したというのは全く登場しないということです。

信長は南西から稲葉山城を攻略してきましたが全く歯が立たず断念しています。

そして小牧山城に居城を移し、東美濃を押さえて東から稲葉山城に攻め入っているというところがとても注目に値します。

以前からわかっていたことではありますが、改めて見てみるとその戦略がとても明確ですし、前述の地図を見てもらうと一目瞭然です。

そして、犬山城が非常に重要な役割を持っていることがわかりました。

犬山城に注目して信長の足跡をたどると、美濃攻略の戦略が分かりやすくて楽しいですね。

コラム ~伊木山城~

伊木山城について書かれているものが少ないので、この機会に紹介したいと思います。

伊木山城は重要な境目の城

▲ 伊木山城遠景。伊木山城から犬山城、宇留摩城が見下ろせる。

犬山と各務原市鵜沼の境の木曽川に急峻な山がそびえ立ちます。

ここにはかつて、城がありました。

伊木山城です。

そこは、尾張の国と美濃の国の境にあり、「境目の城」つまり、国境警備としての機能・役割がありました。

尾張側から伊木山城を攻め落とした織田信長は美濃攻めの足掛かりにし、羽柴秀吉は小牧・長久手の戦いのときに美濃側から犬山城を攻め落とすときに利用しました。

伊木山城主・伊木清兵衛忠次

伊木山城の城主は、伊木清兵衛忠次。

池田輝政が藩祖である播磨姫路藩の筆頭家老です。

伊木山城で頭角を現した伊木忠次は、池田恒興(織田信長家臣)に仕え、その後、家督を継いだ池田輝政に仕えました。

美濃竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)で5千石の知行を与えられたのち、三州田原城 1万5千石(愛知県豊橋市)の城主を経て、播磨三木城(兵庫県三木市)の城主となり、3万7千石を与えられました。

まとめ

今回は、犬山城を中心に信長の美濃攻略を辿ってみました。

こうして見てみると、信長が美濃攻略のために犬山城を押さえて尾張を完全に統一したこと、東美濃を押さえてから稲葉山城を攻略したこと、そして拙速に進めたわけではなく時間をかけてじっくりと攻略していったことがわかりました。

なかなか面白い考察ができたと思います。

犬山城の重要性がまたまた浮き彫りになり、予想以上に重要な位置にあることが明らかになりました。

こういう目線で犬山城を見てみるのもとてもおもしろいですね。

ということで、織田信長が犬山城を攻略したおかげで美濃を制圧できたよというお話でした。

じゃあね👍

2019年04月20日
犬山城マイスター!たかまる。

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