江戸時代の城の修繕や築城は、武家諸法度(ぶけしょはっと)で厳しく定められていました。
城を修繕するときには幕府の許可を得なければいけませんでした。
犬山城の修繕も幕府の許可を得ながら行っていました。
今回は犬山城と武家諸法度について、見ていきましょう。
武家諸法度(ぶけしょはっと)と犬山城
- 犬山城の修繕は、幕府の許可を得てから行っていた
- 250年間で、31通の許可書が出ている
- 天保13年(1842)には、火事で焼失した松の丸・桐の丸・樅の丸の櫓・門・塀から御殿・侍屋敷まで39か所を再建・修復した
犬山城は、江戸時代を通して大雨や地震火災などによって、石垣が崩れたり建物が破損・消失したりすることが何度かありました。
そしてその度に、幕府に修理の届出をして、許可を得てから修理するということを行っています。
これは元和元年(1615年)7月に公布された武家諸法度(ぶけしょはっと)に従っていたことを示すものです。
江戸時代を通して城主だったのは成瀬家です。
成瀬家は大名ではありませんでしたが、尾張藩の付家老という重要ポストであり、犬山城を将軍より拝領していました。
そのため、他の大名と同じように犬山城の修繕が必要な時には、幕府の許可を得てから行っていたのです。
寛永七年(1630)から慶応元年(1865)までの250年間に、31通の許可書が確認されています。
この他にも、修復が行われたことを示す城絵図や史料なども残っています。
天保13年(1842)には、焼失した松の丸・桐の丸・樅の丸の櫓・門・塀から御殿・侍屋敷まで39か所を再建・修復しています。
櫓・門・塀などの修復には届け出の必要ありませんでしたが、焼失による建物の再建は新築工事とみなされるため、届け出して許可を得てから工事を行ったようです。
このように記録をたどることによって、武家諸法度がどのような法令であったのかということを見ることができます。
武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?
- 元和元年(1615年)7月に公布された法令
- 武家の行いについて規定された法令
- 大名が居城を修理・修復する場合には、事前に幕府に届け出なければいけない
- 城の新築は認められなかった
武家諸法度(ぶけしょはっと)は元和元年(1615年)7月に公布された法令です。
その後の幕府の根本となりました。
武家の行いについて規定された法令で、その中でもお城に関係することとしては、
- 大名が居城を修理・修復する場合には、事前に幕府に届け出なければいけない
ということが義務づけられました。
しかも、将軍の許可が得られないと工事ができないという厳しいものです。
許可なくして勝手に城を直したりすると、幕府に対して反逆の意があるとされ、査察などがありました。
有名なところでは、広島城の福島正則が幕府の許可を得ずに本丸・二の丸・三の丸の石垣を修理したため、幕府にとがめられて改易されてしまいました。
武家諸法度は寛永12年(1635年)に一部が改訂されました。
その改訂によって、石垣・土塁・堀の修復は今まで通り許可が必要でしたが、櫓・門・塀などは元通りに修復するのであれば届け出の必要がなくなりました。
これは、
- 普請(ふしん)=土木工事は許可が必要
- 作事(さくじ)=建物の修復は届出の必要がない
ということを表しています。
しかし、いずれにしても新しい城を作ることは基本的には認められませんでした。
まとめ
元和元年(1615年)に出された武家諸法度。
犬山城の修繕もこの法令に準じて行われました。
250年間に31通の許可書が確認されています。
厳しい法令ですが、それに従って城を守ってきたことがよくわかりましたね。
ということで、犬山城と武家諸法度についてのお話でした。
じゃあね🖐️
2020年01月15日
犬山城マイスター!たかまる。