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【三代目犬山城主】池田恒興(いけだつねおき)。信長の乳兄弟で重臣。功績を認められて犬山城を拝領す!

織田信清から犬山城を奪った信長が入城させたのは、乳兄弟でもあり重臣でもある池田恒興。

信長・信忠について各地を転戦とする忙しい日々。
犬山城主時代の功績で大出世を遂げた。

犬山城の『俺が城主だ!シリーズ』第3弾。3代目城主=池田恒興(いけだつねおき)。

三代目犬山城主・池田恒興注1)

木曽川と犬山城の風景
▲池田恒興は犬山城から出世を果たした

織田信長が、前犬山城主・織田信清を追い出して尾張統一を果たしたのち、犬山城一万貫※01 を任されたのが池田恒興です。

織田家に仕えていた父・池田恒利と信長の乳母である母・養徳院との間に生まれました。

つまり、信長と恒興は乳兄弟(ちきょうだい)で幼少時から小姓として信長に支えていたので、信長と恒興は特別な絆があったようです。

信長に仕えて転戦とする中での功績が認められ、元亀元年(1570年)に尾張・犬山城1万貫を拝領しました。

その後、恒興は信長の嫡男・信忠の配下に入りました。

犬山城で恒興がどのような手腕を発揮したかは記録にありませんが、摂津国に移るまでの約11年間は犬山城が居城でした。

11年間も城主を務めていたため、このころに犬山城の改修や整備も行ったのではないかと推測できます。

犬山城主として

3代 注1)

『犬山市史 通史編上(原始・古代、中世、近世)』※02 には、織田信長が織田信清から犬山城を奪った後は丹羽長秀に城を与えたと書かれている。

また、『信長公記』※08 では犬山城を攻め落としたのは丹羽長秀であると書かれている。さらに、その後に犬山城を拠点に行われたと考えられる加治田城、猿啄城、堂洞城の攻略も丹羽長秀の功績であることが書かれている。

このことから、丹羽長秀が城主であった可能性も否定できない。

しかしながら、根拠となる史料が不足しているため断定するには至っていない。

そのため当サイトでは、城主記などまとめて書かれているものを主として記載している。

今後、新たな知見が得られた場合は更新する。

期間

元亀元年(1570)~天正9年(1581)

在位

11年

犬山での動静

犬山での動静を伝える当時の古文書などは残っていませんが、明和5年(1741年)ごろ書かれたとされる『尾州丹羽郡犬山城主附』※03 や宝暦2年(1752年)に完成したといわれる『張州府志』※11 には、城の普請(築城または改修工事)を行ったとの記載が見て取れます。

「・・・信長池田信輝添賜一萬貫地普請堅固ニシテ元亀之始ヨリ天正九年ニ至・・・」

『尾州丹羽郡犬山城主附』※03

「元亀中以犬山城賜池田勝三郎信輝。領一万貫。信輝増修塁壕居之。」

『張州府志』※11

プロファイル

生誕天文5年(1536)
死没天正12年4月9日(1584年5月18日)
氏族池田氏
父母父:池田恒利
母:養徳院
兄弟
正室:善応院
元助、せん、輝政、長吉、長政、若政所、天球院、浅野幸長正室、織田勝長正室
改名
別名恒興、勝三郎
(俗に「信輝」と伝えられ、江戸時代中期以降に書かれた書籍には「信輝」と書かれるが、当時の文書に「信輝」と署名したものはない※09
官位紀伊守
諡号勝入
戒名護国院雄岳宗英
主君織田信秀→信長→信忠→秀信→羽柴秀吉
所領尾張犬山1万貫(愛知県犬山市) → 摂津12万石(兵庫県神戸市) → 美濃大垣13万石(岐阜県大垣市)

略歴

画像:池田恒興像(林原美術館蔵)
▲池田恒興像(林原美術館蔵

天文5年(1536)、織田氏家臣・池田恒利の子として誕生したと言われます。出身地は諸説ありますが、尾張が有力です。通称は勝三郎で、紀伊守を自称しています。信長が本能寺の変で討たれたのち、葬式の時に剃髪して入道し、勝入と号しました。諱を信輝としている軍記物もありますが、信頼できる同時代史料には見当たらないとされます※09。母の養徳院は織田信長の乳母でもあり、後に信長の父・織田信秀の側室となっています。幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、信長と共に桶狭間の戦い、美濃攻めなどで戦っています。

元亀元年4月(1570)、越前攻めに従軍。同年6月、小谷攻めに従軍。その後も、姉川の戦いに従軍したり、丹羽長秀とともに家康軍の加勢となって朝倉軍と戦ったりしました。その後、信長の嫡男・織田信忠の配下に入ります。

元亀元年、犬山城主となって1万貫を与えられました。

さらに、比叡山焼き討ち、長島一向一揆、などにも参陣しています。

天正元年(1573)、槙島城の戦いに従軍。

天正2年(1574)、東濃の小里城に入り、武田勝頼に奪われた明智城の押さえとなりました。

天正6年11月(1578)、有岡攻めに従軍。子の元助・輝政を連れて、初めは倉橋郷、のちに川端砦の定番を務めます。

天正8年(1580)、摂津花隈城を攻め、籠もる荒木村重を破ります。武功が認められ、摂津を領して兵庫城を築きました。

天正10年3月(1582)、織田・徳川連合軍による甲州征伐では摂津の留守を守るよう信長から命令されましたが、息子二人を出陣させました。

同年6月2日、本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流。同年6月13日、山崎の戦いで兵5,000を率いて光秀を破ります。戦後、織田信孝・羽柴秀吉・丹羽長秀らとともに入京しました。

同年6月27日、清洲会議に柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀とともに織田家の宿老として列席します。秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立して柴田勝家らに対抗しました。領地の再分配では摂津国のうち大坂・尼崎・兵庫の12万石を領有します。自身は大坂城に入城し、嫡男・元助は摂津伊丹、次男・輝政は尼崎に配置しました。

同年10月28日、京都本圀寺で秀吉・長秀・恒興による会談が行われます。織田家督を三法師から信雄に交代させる話し合いだったと思われます。

天正11年4月(1583)、賤ヶ岳の戦いが起こるが、恒興はこれには参戦していません。同年5月25日、美濃国のうち13万石を拝領し、大垣城主となります。嫡男の池田元助が岐阜城、次男・輝政が池尻城に入りました。摂津二郡は安堵しました。

天正12年3月(1584)、織田信雄が羽柴秀吉に宣戦布告。小牧・長久手の戦いが勃発します。

池田恒興や娘婿の森長可の去就が注目され、織田家宿老として信雄を嫡流として擁立していたため信雄方につくと思われましたが、秀吉方として参戦。秀吉より戦に勝利した際には尾張一国を約束されていました。この行動が彼の運命を決めることになります。

同年3月13日、犬山城の戦いで犬山城を攻め取ります。秀吉軍が伊勢に侵攻したのに対抗して信雄軍は尾張の家臣を伊勢に集結させたため、恒興が手薄となった犬山城を夜陰に乗じて攻め落としました。これが小牧・長久手の戦いにおける尾張での緒戦となります(犬山城の戦い)。犬山城を拠点に小牧山城の信雄・家康軍と対峙し、膠着状態となります。

同年4月6日、三河へ進軍。徳川家康の領地である岡崎を目指し、先方を務めます。恒興の娘婿である森長可が二番手、堀秀政が三番手、三好秀次(のちの関白・豊臣秀次)が殿を務めました。

同年4月9日、岩崎城の戦い。丹羽氏を打ち破り岩崎城を奪取します。その直後、秀次隊が徳川軍に攻撃されたとの報を聞き、急ぎ北上して信雄・家康軍と長久手で激突しました。これを長久手の戦いと呼びます。この戦いにおいて恒興は森長可と共に戦死しました。永井直勝の槍を受けて戦死したといわれています。享年49。

嫡男・元助も共に討ち死にし、家督は次男・輝政が相続しました。のちに輝政は初代姫路藩主となり、姫路城の大規模修繕を行いました。

歴代の犬山城主についてはコチラの記事で

>>> 犬山城の歴代城主まとめ

注釈

注1)江戸時代に書かれた『尾州丹羽郡犬山城主附』※03 や『尾州丹羽郡稲木庄犬山城初築之来由 歴代之城主』※04 などでは第7代とされるが木之下城時代も含まれているため、ここでは「犬山城」時代のみとして代数をカウントした。

参考文献

※01)『池田家履歴略記』 日本文教出版、吉田徳太郎編集、1963年7月

※02)『犬山市史』 通史編上 原始・古代、中世、近世、犬山市、平成9年11月25日

※03)『尾州丹羽郡犬山城主附』 西尾市岩瀬文庫蔵、明和5年(1741年)刊か?

※04)『尾州丹羽郡稲木庄犬山城初築之来由 歴代之城主』 犬山城白帝文庫蔵、宝暦3年(1753年)、賀島晶与著

※05)『尾濃葉栗見聞集』 岐阜県図書館蔵、享和元年(1801年)、吉田正直著

※06)『尾州犬山城主記』 西尾市岩瀬文庫蔵、文化14年(1817年)、賀島晶与著

※07)『犬山城主考』 西尾市岩瀬文庫蔵、文政元年(1818年)、吉野正張著

※08)『信長公記』 太田牛一、角川日本古典文庫、2019年9月28日

※09)『織田信長家臣人名事典』 高木昭作監修、谷口克広著、吉川弘文館、1995年(平成7年)1月10日

※10)『織田信長総合辞典』 岡田正人著、雄山閣

※11)『張州府志』 宝暦2年(1752年)完成、名古屋史談会、大正2年7月発行

※12)『犬山里語記』 犬山市史 史料編四 近世上、犬山市、昭和62年1月31日

※13)『犬山視聞図会』 犬山市史 史料編四 近世上、犬山市、会和62年1月31日

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