日本100名城・55番・千早城(ちはやじょう)をご紹介します。
お城めぐりの参考に。
日本城郭検定を受験するときの参考に。
千早城(ちはやじょう)#055『楠木正成が鎌倉幕府の大軍を迎え撃った城』
楠木正成(くすのきまさしげ)が鎌倉幕府の大軍を迎え撃った城である千早城(ちはやじょう)をご紹介します。
千早城は、大阪府南河内郡千早赤阪村にある城跡です。
見どころ
千早城の本丸、二の丸、三の丸に沿って金剛山(こんごうさん)山頂への登山ルートが作られています。
かつての楠木軍(くすのきぐん)と鎌倉幕府軍(かまくらばくふ)の戦いの跡がそのまま残っています。
それは曲輪(くるわ)や空堀(からぼり)、二の丸に残る竪堀(たてぼり)や武者隠(むしゃかくし)などです。
主な遺構
本丸
二の丸
三の丸
茶屋の段
空堀
武者隠
縄張(なわばり)
千早城は鎌倉末期の武将・楠木正成(くすのきまさしげ)が築いた城です。
標高約660 m の金剛山(こんごうさん)中腹に築かれた山城(やまじろ)です。
尾根上に設けられた曲輪(くるわ)群を一つの城として考えると、下赤坂城は出丸(でまる)、上赤坂城は本丸(ほんまる)、千早城は詰の城(つめのしろ)にあたります。
城跡には曲輪(くるわ)跡、空堀(からぼり)、堀切(ほりきり)などが残されています。
赤坂城一体での発掘調査により、焦土跡などが発見されています。
千早城の二の丸跡には千早神社(ちはやじんじゃ)が建ち、境内には城址記念碑が建っています。
千早城は北谷(きただに)、妙見谷(みょうけんだに)、風呂谷(ふろだに)など四方を深い谷に囲まれています。
本丸、二の丸、三の丸、四の丸の順に下がっていく縄張(なわばり)となっています。
歴史
元弘3年(正慶2年、1333)、楠木正成(くすのきまさしげ)が1000人の兵と共に千早城に籠城しました。
城を囲む鎌倉幕府の大軍に対し、石を落としたり火攻めにするなどして善戦しました。
千早城で鎌倉幕府が足止めされた格好です。
この間に東国で新田義貞(にったよしさだ)が挙兵し、鎌倉幕府を滅亡へと導きました。
千早城はその後、南北朝時代(なんぼくちょうじだい)になると畠山氏(はたけやまし)に攻められて落城しました。
そして廃城となりました。
千早城の基本情報
別名 | - |
所在地 | 〒585-0051 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 |
城の種類 | 山城 |
築城年代 | 元弘2年(正慶元年、1332) |
築城者 | 楠木正成 |
主な城主 | 楠木氏 |
文化財史跡の区分 | 国指定史跡 |
主な復元や整備 | |
アクセス | 南海高野線・近鉄長野線「河内長野」駅から南海バス「金剛山ロープウェイ前行き」で約35分、「金剛登山口」下車、徒歩約20分 近鉄長野線「富田林」駅から金剛バス「金剛山ロープウェイ前行き」で約35分、「金剛登山口」下車、徒歩約20分 |
日本100名城スタンプ設置場所 | 金剛山山麓まつまさ |
関連施設 | 千早城 ・ 千早神社 国史赤阪城跡(下赤坂城跡) |
リンク | 千早城 ・ 千早神社 |
地図・マップ
まとめ
日本100名城・55番・千早城(ちはやじょう)をご紹介しました。
お城めぐりの参考にしてください。
また、日本城郭検定を受験するときの参考にしてください。
じゃあね🖐️
2020年04月07日
犬山城マイスター!たかまる。