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【第四代・犬山城主】織田信長の息子・織田信房(おだのぶふさ)が犬山入城。

犬山城の城主、三代目・池田恒興の次はなんと!織田信長の息子・織田信房(のぶふさ)が四代目城主になったのだった。

織田信長の直系が城主だったというのはほとんど知られていない。

織田信長の息子・織田信房

織田信長の重臣・池田恒興が城主でしたが、その後は織田信房が城主になりました。

しかし、この信房。ほとんど知られていません。

いつ産まれたのか不明。母親も不明です。

何となく記録が出てくるのが、織田家と武田家が美濃と甲斐の国境でいざこざしているころ。

美濃国岩村城の遠山氏のところへ養子にいったとか。その後、岩村城は武田の支配下に置かれることとなり、信房は人質となりました。

しかし、天正9年に武田と織田の和睦の一貫として信房(勝長)は織田家に返還されました。

信房は、武田の元でとも織田に帰ってからとも言われますが、いずれにしても元服して源三郎信房を名乗るようになりました。

そして、『信長公記』によると、このとき信房=勝長は犬山城の城主として安土城で信長と対面しました。

信長からは、小袖・刀・鷹・馬・槍などその他いろいろ取り揃えて贈られたそうです。

信長は信房の側近にまでそれぞれ相応のものを贈ったということです。

▲ 信長直系の息子も城主を務めていた時期がある。

ということは、天正9年には犬山城の城主だったことになりますが、詳細はわかっていません。

しかしこのころは美濃・尾張を信長の嫡男・信忠が治めていましたから、信忠の配下で犬山を治めていたことになります。

信忠のもとにいたため、本能寺の変のときに信長、当主・信忠とともに、信房は討ち死にしてしまいました。

本能寺の変にて、二条城にて没す。

まだ20歳代だったと思われます。

●城主データ●

織田信房(勝長)

四代目城主

在位 約2年:天正9年(1581年)~天正10年(1582年)

犬山城歴代城主についてはコチラの記事で。

まとめ

信房のことはあまり知られていないので、もう少し調べてみようと思います。

ということで、信長の息子が城主を務めたこともある、犬山城でした。

じゃあね🖐️

2019年04月12日
犬山城マイスター!たかまる。

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