【犬山城の戦い】 犬山城主・中川定成はどこへ行ってしまったのか?



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天正12年(1584年)3月13日。

わずか1日で犬山城が落城します。

このときの犬山城主は、織田信雄の家臣・中川定成ですが、不在だったとか。

では、どこへ行ってしまったのでしょうか?

 

 

犬山城が攻められたとき、城主はどこにいたのか?

 

攻め落としたのは池田恒興で、犬山城主だった男です。

その日は現犬山城主・中川定成が不在だったこともあり、1日で落城させることができました。

現在の犬山城天守

 

では、中川定成はどこへ行っていたのでしょうか?

答えは、北伊勢に出陣し、峯城を守っていたようです。

そのときは、羽柴秀吉方が北伊勢に侵攻してきており、伊勢を治めていた織田信雄が防戦していました。

信雄の筆頭家老である中川定成も出陣していたのはおかしくありません。

これは、いろいろな参考文献に書かれていますので、間違いないでしょう。

 

 

犬山城主・中川定成が討死?

 

その中川定成は、犬山城急襲の知らせを聞いて犬山に戻る途中で、池尻平左衛門に殺された!

ということが、いろいろな資料に書かれています。

これはある意味、衝撃的なことですね。

 

 

「定成を伊勢に出動せしめ、峯の古城を修理し、・・・(中略)・・・。定成は犬山城の悲報を聞き急ぎ帰らんとする途中、木曽川通り秋江の渡りを越した所で、私憤を有する池尻平左衛門の為に殺された。」(犬山市資料 第三集)

 

「犬山城の城主・中川勘右衛門は、伊勢の峯城へ出陣していた。しかし、中川勘右衛門が峯城を出て長島城から犬山へ引き返す途中のことであったが、池尻平左衛門の部隊と遭遇して戦闘になり、中川勘右衛門、池尻半左衛門ら双方とも戦死してしまった。」(新鵜沼の歴史)

 

「・・・退路を断たれた中川雄忠は、居城犬山へ帰る途中、池尻平左衛門に殺される。」(くさの井史)

 

「信雄は峰城を防衛上の拠点と考え、重臣で、尾張の支城主クラスの武将を峰城に送っていた。その一人が犬山城主の中川雄忠だったのである。しかし、峰城は防戦むなしく、3月14日陥落し、中川雄忠は敗走途中殺され、・・・」(戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争)

 

その他、「尾張志」、「信長犬山美濃を平定」などにも同様の記載があります。

 

これが本当であれば、居城は落とされるし、自分は討ち死にするし、中川定成はさぞかし無念だったでしょう。

 

 

 

 

中川定成は生きていた?

 

ところが!

天正13年作成とされている「織田信雄分限帳」に中川勘右衛門、すなわち中川定成の名前があるのです!

これは一体どういうことでしょうか?

犬山市史を見てみると、次のように書かれています。

 

「中川定成は加勢に向かった北伊勢の峰城落城後、犬山占拠を知って引き返す途中、私怨のため池尻平左衛門に討たれたとする。しかし、このことは戦後の「信雄分限帳」に池尻氏とともに定成が記載されている事実に合わない。」

 

さて、真実はどうなのでしょうか?

織田信雄分限帳を見てみましょう。

愛知県史資料編12織豊2から引用します。

 

織田信雄分限帳より抜粋。
小牧・長久手の戦いの翌年(天正13年)のもの

 

同資料の解説には

「分限帳は天正13年当時の知行地を各給人単位に書き上げられたものであるが、天正11年検知に基づく宛行を基礎にして、小牧・長久手の合戦中の知行替や戦後の加増など、知行地の変動を色濃く反映したものとなっている。」

とあります。

 

つまり、織田信雄分限帳は小牧・長久手の戦い以後に、その働きも踏まえて作成されたものということです。

 

その織田信雄分限帳に中川定成の名前があるということは、中川定成が犬山へ帰る途中に討たれたというのは正しい記録とは言えない、ということでしょう。

犬山城は池田恒興に落とされますが、当時の犬山城主・中川定成は討ち死になんかしていない。

これが私の見解です。

 

 

 

中川定成のその後の動き

 

その後の動きが、いろいろな資料に出てきます。

 

まず、天正12年7月17日に信雄が、津島の外科医若山氏に対して定成の傷の治療を依頼していると、「張州雑志 第77巻」には書かれているようです。(犬山市史 通史編)

また、天正12年11月の秀吉と信雄の講和条件に、人質として提出すべき重臣5人の一人に定成が挙げられています。(犬山市史 通史編)

さらに、信雄が越中攻めに参陣中の天正13年8月26日に様子を尋ねる家康の陣中見舞いが、定成ら重臣5人宛であることが「譜牒餘録 巻56」に書かれています。

その他、天正13年6月、信雄に従って上京。信雄の共をして大阪に行き、6月12日に催された津田宗及の茶会に出席していると「宗及記」に記されているらしい。(織田信長家臣人名辞典)

これらのことから、この小牧・長久手の戦いの後も信雄の重臣として活躍していたことが伺えます。

 

 

軍記物の落とし穴

 

では、なんで討ち死にされたことになったのでしょうか?
それは、小牧・長久手の戦いの後に書かれた軍記物などによって脚色された可能性です。

こんな細かいことまで記録に残ってるの?っていうことが軍記物にはよく書かれていますよね。

実際、長久手町史 資料編に収載されている軍記物を見ると、池尻平左衛門に討たれたとする記述が出てきます。

これですね。納得です。

大河ドラマも史実に基づいたフィクションだと言われています。

そのときの世相にあわせて面白おかしく書かれるものです。

歴史を語るときには、そのあたりを気を付けたいものですね。

 

いずれにしても犬山城は落城して取られてしまいますが、その後も信雄の重臣として重用されて、中川定成はよかったですね。

このブログが中川定成の真実の一端を世に知らしめることになることを願います。

 

 

<参考文献>
●犬山市史 通史編上、平成9年11月25日、犬山市教育委員会・犬山市史編さん委員会

●犬山市資料 第3集、昭和62年9月、犬山市教育委員会・犬山市史編さん委員会

●愛知県史 資料編12 織豊2、平成19年3月31日、愛知県

●新鵜沼の歴史、平成23年4月20日、梅田薫著、鵜沼歴史研究会

●信長犬山美濃を平定、平成8年9月1日、梅田薫著、美濃文化財研究会

●戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争、2006年10月1日、大和田哲男著、吉川弘文館

●尾張志 下巻、昭和54年7月23日 復刻出版、愛知県郷土資料刊行会

●くさの井史、昭和54年6月、くさの井編さん委員会

●長久手町史 資料編6 中世 長久手合戦資料集、平成4年10月1日、長久手町役場

 

 

 

 

ということで、犬山城の戦い当時の城主・中川定成は、織田信雄の重臣として大活躍したというお話でした。

じゃぁね。

 

 

2018年12月02日
犬山城マイスター!たかまる。

 

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