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羽柴秀吉(はしばひでよし)【小牧・長久手の戦い】

羽柴秀吉(はしばひでよし)

小牧・長久手の戦いのもう一人の主人公。
本能寺の変の後、織田家臣団のなかで一気に勢力を拡大し、織田家よりも力をもちつつあったころ。
のちに関白となって天下を統一するが、その中でもターニングポイントになったと言っても過言ではないのが、この戦いである。
当時 46歳(推定)。

羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉のことはよくご存じのことと思います。
ここでは、小牧・長久手の前後の秀吉について記載します。
秀吉の生涯については、良書が多数あるのでそちらを参照してください。

羽柴秀吉という男

氏名羽柴秀吉(はしばひでよし)
生誕天文6年2月6日(1537年)
死没慶長3年8月18日(1598年) 享年62
改名木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉 → 藤原秀吉 → 豊臣秀吉
別名藤吉郎、筑前守
最高官位従一位・関白、太政大臣
兄弟日秀(三好吉房室)、秀吉、秀長、朝日姫(のちの徳川家康継室)
正室:高台院、側室:淀殿 他
鶴松、秀頼

小牧・長久手の戦い当時、秀吉はまだ羽柴姓を名乗っていた

ここでは羽柴秀吉と表記する。

豊臣姓は天正14年(1586年)に賜り、以後は豊臣秀吉と称した。

当時は48歳、この戦いの最中の10月15日に従五位下左近衛権少将に叙位任官された。

当時は大坂城を居城としており、小牧・長久手の戦いでは子飼いの武将が総動員となった。

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羽柴秀吉 略年表

画像:豊臣秀吉像(狩野光信筆、高台寺蔵)
豊臣秀吉像(狩野光信筆、高台寺蔵)

※小牧・長久手の戦い前後を中心に記載

年月出来事
出自は定かではない。
織田信長に仕えた。
織田家臣団の中で頭角を現し、中国方面軍の大将に任命される。
天正10年6月2日
(1582年)
織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害(本能寺の変)。
このとき秀吉は毛利軍と交戦状態にあったが、変を知るやいなや毛利輝元と講和し、備中から京都に軍を返した(中国大返し)。
同年6月13日山崎において明智光秀と戦った(山崎の戦い)。この戦いで池田恒興、丹羽長秀らが秀吉を支持し、光秀を打ち破った。その後、京都における支配権を掌握。
同年6月27日清須会議。
この会議で、織田家重臣・柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推したが、秀吉は信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推して対立。
結果として三法師が信長・信忠の後継者となった。
同時に、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢と伊賀国、細川藤孝が丹後国、筒井順慶が大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀が近江国の滋賀郡・高島郡15万石の加増、池田恒興が摂津国尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政が近江国佐和山を与えられた。勝家は長浜12万石が与えられた。
秀吉は、播磨国・但馬国に丹波国や山城国・河内国を増領し、28万石の加増となった。
天正10年10月
(1582年)
織田信孝・柴田勝家と秀吉の対立が激化する。
秀吉・丹羽長秀・池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故にし、信雄を織田家当主として擁立し主従関係を結ぶ。
天正11年4月
(1583年)
21日、賤ケ岳の戦いにおいて柴田勝家を打ち破る。
24日、北庄城にで勝家を滅ぼす。
後に、織田信孝は自害、滝川一益も降伏。
同年5月22日従四位下、参議に叙任。
同年大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に大坂城を築く。
天正12年
(1584年)
秀吉が織田信雄に年賀の礼に来るように命令するが、これを契機に信雄は秀吉に反発し、対立。
同年3月6日信雄は秀吉に内通したとして三家老を謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告。
これに対して秀吉は、関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけ、さらに美濃国の池田恒興・森長可を味方につける
同年3月13日池田恒興が尾張犬山城を奪取することにより、尾張での戦闘が始まる。
また、伊勢国においても峰城を攻め落とすなど優勢に運ぶ。
同年 羽黒八幡林の戦いで森長可が撃破。
同年 秀吉方は楽田城を本城として、信雄家康隊の小牧山城と対陣。
同年 3月21日大坂から出陣。
同年 3月27日犬山城に入城。膠着状態が続く。
同年 4月6日三河中入り作戦を決行。
先鋒・池田恒興、第二隊・森長可、第三隊・堀秀政、総大将・三好秀次(秀吉の甥で、のちの豊臣秀次)で岡崎に向け進軍。
秀次が白山林の戦いにおいて撃破され、敗走。
信雄家康の軍勢により池田恒興・元助と森長可らが戦死(長久手の戦い)。
同年 尾張での戦いが再度膠着状態となるが、秀吉は加賀野井城などの信雄領である美濃や北伊勢の諸城を次々と攻略した。
同年 11月信雄と講和。後に、家康も和議を結ぶ。
同年 11月22日従三位、権大納言に叙任。
天正13年3月10日
(1585年)
正二位、内大臣に叙任。
同年 各地で対抗勢力を打ち破って平定(紀州征伐、四国攻め、富山の役など)。
同年 7月従一位、関白任官。
天正14年9月
(1586年)
豊臣の姓を賜って、豊臣秀吉と称する。
同年12月19日太政大臣任官。
天正18年小田原征伐、奥羽仕置などを経て天下統一を果たす。
天正19年12月18日関白を辞任。太閤と呼ばれる。
慶長3年8月18日
(1598年)
伏見城で死去。享年62。
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参考文献

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