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中川清蔵主(なかがわせいぞうす)/犬山城の戦いで奮戦した男【小牧・長久手の戦い】

犬山城の歴史を語るうえで外せない男がいます。中川清蔵主です。彼は天正12年(1584年)に起きた「犬山城の戦い」において犬山城を守るべく奮戦して討ち死にしました。小牧・長久手の戦いの尾張における緒戦となった犬山城の戦いですが、池田恒興の奇襲作戦を真っ向から迎え撃ったのです。そんな男がいたことをご存じだったでしょうか。くわしく見ていきます。これだけ詳しく解説しているものは他にはありません。必読です。

犬山城の戦いで激闘の末に戦死した

中川清蔵主が守ろうとした犬山城(当時の姿はどんなだったろう)
▲中川清蔵主が守ろうとした犬山城。当時の姿はどんなだったろう【画像:たかまる。】

天正12年3月13日(1584年3月23日)の真夜中に、大垣城主・池田恒興(勝入)が木曽川を渡って犬山城を攻撃しました。小牧・長久手の戦いにおける尾張の緒戦「犬山城の戦い」です。このとき、犬山城を守っていたのが中川清蔵主で、手兵は僕婢(ぼくひ)=下男下女など、わずか二十数名だったと言われます。

池田恒興は手兵三千余名(※諸説あり)を率いて大垣城を出立し、途中、息子元助の居城である岐阜城に立ち寄って合流し、東に歩を進めました。折からの大雨で木曽川が増水して大きな音を鳴らしながら流れていました。それを良いことに真夜中に渡河作戦を行って木曽川を渡り、西谷に上陸して犬山城を急襲したと伝わります。

大垣城主・池田恒興の進軍ルート。東へ進み犬山を狙った。
▲大垣城主・池田恒興の進軍ルート。東へ進み犬山を狙った。【作図:たかまる。】
木曽川渡河作戦。伊木山麓から犬山城・西谷へ進軍したと推測。
▲木曽川渡河作戦。伊木山麓から犬山城・西谷へ進軍したと推測。【作図:たかまる。】

犬山の町人の中には池田恒興の見方をする者もいて、城へ手引きしたという逸話もあります。しかも犬山城主・中川定成は伊勢の峯城に出陣中で犬山城が手薄だったため、不意に起こる喊声(さけびごえ)に城中は混乱に陥りました。清蔵主は西谷坂で迎え撃ち、十文字の槍をもって敢然と防戦しましたが、激戦の末に戦死しました。享年58と伝わります。この戦いによって犬山城はあえなく池田勢に占拠されたのです。

中川清蔵主が討たれたといわれる西谷坂口付近
▲中川清蔵主が討たれたといわれる西谷坂口付近。【画像:たかまる。】

清蔵主が戦死したといわれる西谷坂口には顕彰碑が建てられています。

滋賀県立大学の中井均先生が書かれた「木曽川中流域の戦国期城郭」(中世山城サミット~中世のロマンを求めて~、平成13年2月17日、各務原市歴史民俗資料館)にも、「天正12年(1584)の小牧・長久手合戦においても伊木山城は木曽川の渡河点を押さえる重要な地点として利用されたことは間違いなく…」と言われています。

池田隊の渡河作戦について

ここで、犬山城の戦いでの池田隊の渡河作戦の場所について検証します。

まずよく言われるのが、「鵜沼城から木曽川を渡り、水の手門を突破して七曲道を駆け上がり本丸に攻め入って落とした」というものです(日本の城 DVDコレクション 第8号)。江戸時代の犬山城絵図を見ると、なるほど、水の手から七曲道を駆け上がるルートが最短であることが良くわかります。しかし、その説の元となっているのは「太閤記」です。そこには次のように書かれています。

(前略)夜に入しかば使番の者、向諸勢、宇留馬の川ばたに陣を取待候へ、東美濃へは通るまじき旨ふれ通りけり、亥の時とおぼしきに、紀伊守十艘の舟に打乗て河を渡し、城へ忍び寄凱歌を唱れば、城中思ひも寄ぬ事ではあり、十方にくれて有りし処を乗入、向ふ者あれば引組で首を取、逃げる者をば伐捨にけり、勘右衛門尉が叔父清蔵主、竪横十文字に切て廻り、八字に追廻ししか共、多数入替々々攻入、終に清蔵主をも討捕てけり、(後略)

ここでは、「水の手門」「七曲道」などの描写はなく、場所を特定できそうなワードとしてわずかに「宇留馬の川ばた」が出てくるのみです。そして、「宇留馬の川ばた」を「宇留馬城=鵜沼城」と読むのは早計です。宇留馬の川ばたとは鵜沼城の川端ではなく宇留馬川、つまり「木曽川の川端」と読み解くのが正しいと考えます。木曽川は岐蘇川と書かれたり、この辺りでは宇留馬川、宇留摩川、鵜沼川と呼ばれたりもしているからです。また、「池田家履歴略記」には次のように記載されています。

(前略)同十三日大垣を立て打けるに、夜に入しかは、御使番を以て、宇留摩川の端に陣取へし、東美濃へは通へからすとそ命有て、亥の刻前に舟にとり乗、川を渡し、犬山に押し寄せ給ふ、伊木清兵衛、大手より即時に攻破て乗入る(中略)城中よりもここを専と防ける、中にも城主中川が叔父清蔵、竪横に切て廻り、終に打死せしかは、城陥りぬ(後略)

ここではより明確に「宇留摩川の端」と場所を示すワードが書かれています。木曽川端から渡河作戦を行ったことを示しており、鵜沼城から攻めて上がったわけではないと考えます。

その他には「大手より」攻め入ったことが書かれていますが、池田家履歴略記は池田家の誉となるように盛って描写されていることがあるために鵜呑みにできないところがあります。この部分では池田家臣の「伊木清兵衛」が活躍したシーンとして描かれているため、メインであり最も難所であるはずの「大手門」を見事打ち破ったと表現しているのではないかとも考えられます。

一方で、「犬山里語記」より抜粋すると、池田方は「宇留馬の川原に屯す」とあり、清蔵主は防戦するといえども「終に乱軍之内に戦死す。西谷坂口之、戦死と云」などと書かれています。場所を示すワードとしては「宇留馬の川原」「西谷坂口」です。西谷とは犬山城中枢部がある城山の西のふもとのことで、江戸時代を通じて「西谷」と呼ばれていました。そこから現在の城前広場へ上がる坂道のことを「西谷坂口」と呼んでいたと推測します。犬山里語記は江戸時代後期(1817〜1824)に書かれた地誌で、その時に呼ばれていた「西谷」という場所を示しながら描写したのでしょう。

これらを総合して考えると、池田勢は木曽川の川端、おそらく鵜沼城跡から伊木山城跡にかけての木曽川沿いより渡河し、犬山城の旧西谷あたりに上陸して攻め上がり、城兵と戦闘になった後に清蔵主を打ち取ったのではないかと推測できます。

木曽川渡河作戦。伊木山麓から犬山城・西谷へ進軍したと推測。
▲木曽川渡河作戦。伊木山麓から犬山城・西谷へ進軍したと推測。【作図:たかまる。】

七曲道を上がって本丸に攻めあがったとの記述は当時に近い史料には一切見られないことから、これは後年になって江戸時代の縄張りを知っている者が考え出した戦法である可能性が高いです。

また、滋賀県立大学の中井均先生が書かれた「木曽川中流域の戦国期城郭」(中世山城サミット~中世のロマンを求めて~、平成13年2月17日、各務原市歴史民俗資料館)には、「天正12年(1584)の小牧・長久手合戦においても伊木山城は木曽川の渡河点を押さえる重要な地点として利用されたことは間違いなく…」と言われており(具体的な根拠は示されていないが)、このように考えるのも妥当ではないでしょうか。

中川清蔵主の命日

中川清蔵主は天正12年3月13日(1584年3月23日)に亡くなったので、命日は旧暦3月13日(新暦3月23日)となります。

中川清蔵主の命日

旧暦3月13日 = 新暦3月23日

犬山城で城主の留守を預かっていた

当時の木曽川は写真のように川原石がゴロゴロしていたと思われる。
▲当時の木曽川は写真のように川原石がゴロゴロしていたと思われる。【画像:たかまる。】

この戦いが起こったとき、中川清蔵主は犬山城の留守を預かっていました。

天正12年3月初め(1584年4月初め)、織田信雄羽柴秀吉の仲が冷え込み一触即発の状態となっていました。羽柴秀吉織田信雄の領国である伊賀・伊勢へと兵を進めたため、織田信雄は尾張にいる家臣に伊勢への出陣を命じました。その命を受けた犬山城主・中川定成は3月初めには犬山城を出立し、3月13日ごろには伊勢の峯城に入城したと思われます。犬山城を空にするわけにはいかなかったので、中川定成は伯父である中川清蔵主に犬山城の留守居を頼みました

そのため、中川清蔵主は池田恒興が攻めてくるときには手兵二十数名で犬山城の留守を預かっていたのです。

峯城(三重県)。犬山城主・中川定成は峯城に出陣中だった。
▲峯城(三重県)。犬山城主・中川定成は峯城に出陣中だった。【画像:たかまる。】

顕彰碑と榎塚

中川清蔵主の顕彰碑/昭和3年8月、尾北健盛会建立。
▲中川清蔵主の顕彰碑/昭和3年8月、尾北健盛会建立。【画像:たかまる。】

中川清蔵主は犬山城の戦いにおいて激戦の末に戦死しました。その地と言われるのが西谷の坂口、いまの城前広場あたりです。この地には顕彰碑が建てられていますが、昭和3年8月に尾北健盛会によって建立されたものです。顕彰碑の後ろ(北側)に追悼記念樹として榎一株が植えられ、榎塚と呼ばれていました。しかし、台風によって木が倒れたために切り倒され、いまは切り株が残るのみとなっています。

中川清蔵主を偲んで植えられたという榎塚。いまは切株のみが残る。
▲中川清蔵主を偲んで植えられたという榎塚。いまは切株のみが残る。【画像:たかまる。】
中川清蔵主の石碑/昭和39年12月、尾北健盛会建立。
▲中川清蔵主の石碑/昭和39年12月、尾北健盛会建立。【画像:たかまる。】
榎塚と中川清蔵主の碑/令和5年4月、犬山市教育委員会
▲榎塚と中川清蔵主の碑/令和5年4月、犬山市教育委員会【画像:たかまる。】

犬山城主・中川定成の伯父(おじ)

龍泉院の案内板/平成9年、犬山教育委員会
▲龍泉院の案内板/平成9年、犬山教育委員会 【画像:たかまる。】

中川清蔵主は、当時の犬山城主・中川勘右衛門定成の伯父(おじ)に当たると伝えられます。「伯父」なので、中川定成の父または母の兄となります。

史料によっては「叔父」となっており、中川定成の父または母の兄か弟か定かではありません。

中川定成の出自が不明のため、中川清蔵主がどういった血筋の人物であるのかは詳しくわかっていません。

瑞泉寺塔頭・龍泉院の住職

中川清蔵主の墓所である龍泉院
▲中川清蔵主の墓所である龍泉院 【画像:たかまる。】

清蔵主は、内田にある瑞泉寺の塔頭・龍泉院の第三世の住職です。これは瑞泉寺史をはじめとする史資料に見られます。

龍泉院は始め大亀庵と呼ばれていたので、史料によっては大亀庵と記載されています。

出生・来歴

龍泉院にある中川清蔵主のお墓
▲龍泉院にある中川清蔵主のお墓 【画像:たかまる。】

出生は不明。

犬山市資料第三集によると、清蔵主は瑞泉寺と縁のある飛騨益田郡禅昌寺で修養した蔵主(ぞうす)であるといいます。蔵主とは座元(ざもと)、首座(しゅざ)と共に禅僧の役職を表します。池田恒興が犬山城の城主だった元亀元年〜天正9年(1570〜1581)に犬山に移り住んだとされます。

瑞泉寺の梵鐘は永禄八年(1565)の兵火によって焼失しましたが、天正七年(1579)に再鋳されました。それを寄進したのは飛騨益田郡にある禅昌寺の首座、玄情であるといわれていますが、中川清蔵主ではないかという説もあります。

天正12年3月13日(1584年4月23日)、寂。享年58と伝えられています。

墓所は内田にある龍泉院。戒名は前住当院浄臺清座元禅師。

まとめ

犬山城の歴史を語るうえで外せない男がいます。中川清蔵主です。彼は天正12年(1584年)に起きた「犬山城の戦い」において犬山城を守るべく奮戦して討ち死にしました。小牧・長久手の戦いの尾張における緒戦となった犬山城の戦いですが、池田恒興の奇襲作戦を真っ向から迎え撃ったのです。そんな男がいたことをご存じだったでしょうか。これだけ詳しく解説しているものは他にはありません。犬山城を訪れた際は、ぜひ中川清蔵主の石碑の前で手を合わせてあげてください。最後までお読みいただきありがとうございました。

参考文献

  • 愛知県史 資料編12(平成19年3月31日、愛知県)
  • 長久手町史 資料編6 中世(平成4年10月1日、長久手町役場)
  • 瑞泉寺史(横山住雄著、平成21年10月30日発行)
  • 犬山市史 別巻 文化財民俗(犬山市、昭和60年3月30日発行)
  • 犬山市史 通史編上 原始・古代、中世、近世(平成9年11がt25日、犬山市)
  • 犬山市史 史料編三 考古 古代・中世(犬山市、昭和58年3月31日発行)
  • 犬山市資料第三集(犬山市、昭和62年9月発行)
  • 犬山城沿革(智仁勇社、昭和2年11月15日)
  • 犬山里語記(犬山市史 史料編四 近世上(昭和62年1月31日発行))
  • 雑話犬山旧事記(犬山市史 史料編四 近世上(昭和62年1月31日発行))
  • 「木曽川中流域の戦国期城郭」(中世山城サミット~中世のロマンを求めて~、平成13年2月17日、各務原市歴史民俗資料館)
  • 太閤記(小瀬甫庵著、寛永3年)
  • 池田家履歴略記(1963年、日本文教出版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 武徳編年集成(木村高敦著、元文5年(1740年)、国立公文書館デジタルアーカイブ)
  • 小牧陣始末記(神谷存心著、明治22年10月、武蔵吉彰)
  • くさの井史(くさの井編纂委員会、昭和54年6月発行)
  • 新鵜沼の歴史(梅田薫著、2011年8月、鵜沼歴史研究会)
  • 美濃雑事記(昭和7年9月30日発行、一信社出版部)
  • 美濃明細記(昭和7年9月30日発行、一信社出版部)
  • 「日本の城 DVDコレクション」第8号(2020年6月23日発行、デアゴスティーニ・ジャパン)
  • 龍泉院にある看板(平成9年3月1日、犬山市教育委員会)
  • 城前広場にある石碑(昭和39年12月、尾北健盛会)
  • 城前広場の榎塚にある看板(令和5年4月、犬山市教育委員会)

再建成った龍泉院には、その後清蔵主が居たが、犬山城主中川定成の叔父ということで犬山城の留守をつとめていて、天正12年(1584)3月に池田恒興(信輝)に攻められて戦死した。

歴代住職  三世 清蔵主 天正12年3月 寂。

鐘楼・梵鐘(抜粋)

応永二十九年に惟肖得岩が撰んだ鍾銘があるので、鐘楼の創建は応永年間にのぼる。その後、永禄八年の兵火により梵鐘と共に焼失し、天正七年(1579)に梵鐘は再鋳された。鐘楼も当然再建されたと思われる。

中川清蔵主

生地、生年は不詳。

清蔵主は、内田瑞泉寺塔頭龍泉院の住職で、犬山城主中川勘右衛門定成の伯父にあたる。

天正十二年(1584)、小牧長久手の合戦のころ、豊臣方の武将で前犬山城主の池田勝入斎信輝が、手兵を率いて大垣城を出て、三月十四日の払暁、折からの大雨で河水の大きな音を幸いに、木曽川を渡って犬山城を急襲した。そのとき、城主定成は伊勢国峯城へ出陣中で、留守を依頼された龍泉院住職清蔵主は、城中の僕婢まで総勢わずか二十余名とともに敢然と防戦、激戦の末に西谷坂口で戦死し、犬山城は池田軍の手に落ちた。墓所は内田龍泉院、戒名は前住当院浄臺清座元禅師。戦死の地に、榎一株を植えた。これを榎塚という。写真は昭和三年八月、尾北健盛会の手になる顕彰碑である。

(中略)守兵防戦甚だ力えたりと雖、衆寡敵せず清蔵主(五十八歳)以下多く奮戦して死し城遂に陥る。(後略)

中川勘右衛門定成の項

(前略)当城に叔父なる瑞泉寺塔頭大亀庵之住僧清蔵主留守居して武士僅二十人計にも足らず守りたり(中略)川戸に伏したる兵卒西谷ゟ攻入たり、清蔵主腹を立、刀を振りて防戦すいえども、兼而案内の城中なれば、池田勢ここかしこに散乱し、蔵主も詮かたなく終に乱軍之内に戦死す(西谷坂口之、戦死と云う)

大亀庵とは龍泉院の旧名なり

青龍山瑞泉寺記

鐘は昔年、東陽和尚鐘に銘せらる。乱世に失脚云々、

飛州益田郡禅昌寺住侶情(ママ)首座寄進の鐘也、其銘に曰く、鋳出鴻鐘大願輪、(中略)青龍山瑞泉公用、飛州益田郡禅昌寺住僧玄情首座寄進也(後略)

瑞泉寺鍾銘写(この鐘、寛永年中破損と伝え、いま寺になし、「青龍山瑞泉寺記」によりてここに収む)

(前略)青龍山瑞泉公用、飛州益田郡禅昌寺住僧玄情首座寄進之、(後略)

中川清蔵主

清蔵主は、内田瑞泉寺塔頭龍泉院の第三世住職で、犬山城主中川勘右衛門定成の伯父に当たる。

天正12年(1584)、小牧長久手の合戦のころ、豊臣方の武将で前犬山城主の池田勝入斎信輝が、手兵を率いて大垣城を出て、3月14日の払暁(※1)、折からの大雨で河水の大きな音を幸いに、木曽川を渡って犬山城を急襲した。そのとき、城主定成は伊勢国峯城へ出陣中で、留守を依頼された龍泉院住職清蔵主は、城中の僕婢(※2)まで総勢わずか二十余名とともに敢然と防戦、激戦の末に西谷坂口で戦死し、犬山城は池田軍の手に落ちた。墓所は当龍泉院、戒名は前住當院浄臺清座元禅師。

戦死の地に、榎一株を植えた。これを榎塚という。榎塚は、犬山市体育館の玄関脇にあり、榎の大木と碑がある。

平成9年3月1日  犬山市教育委員会

天正12年-西紀1584年-3月小牧長久手合戦の劈頭(※1)豊臣方の武将池田勝入斉信輝は手兵三千余を率いて大垣城を発し3月14日の払暁一挙に木曽川を渡し西谷に上陸して犬山城を急襲した。

時の犬山城主中川勘右衛門定成は部下を率い伊勢の国の峯城へ遠征中のため留守居役中川清蔵主は城中の僕婢達総勢僅か二十余名と共に敢然池田の大軍を西谷坂に迎え激戦の末矢玉尽きて全軍玉砕し要害を誇る犬山城は遂にあえなく池田勢に占拠された。清蔵主は名利瑞泉寺塔頭龍泉院の住職で城主中川定成の伯父にあたる。この碑の背後の大榎は清蔵主戦死の蹟に植えられた追悼記念樹である。

昭和39年12月  尾北健盛会

筆者追記 ※1 劈頭:まっさき。

榎塚と中川清蔵主の碑

清蔵主は、内田瑞泉寺塔頭龍泉院の第三世住職で、犬山城主中川勘右衛門定成の伯父に当たる。

天正12年(1584)、小牧長久手の合戦のころ、豊臣方の武将で前犬山城主の池田勝入斎信輝が、手兵を率いて大垣城を出て、3月14日の払暁(※1)、折からの大雨で河水の大きな音を幸いに、木曽川を渡って犬山城を急襲した。そのとき、城主定成は伊勢国峯城へ出陣中で、留守を依頼された龍泉院住職清蔵主は、城中の僕婢(※2)まで総勢わずか二十余名とともに敢然と防戦、激戦の末に西谷坂口で戦死し、犬山城は池田軍の手に落ちた。墓所は龍泉院、戒名は前住當院浄臺清座元禅師。

戦死の地に、榎一株を植えた。これを榎塚という。榎塚は、現在は切り株のみとなっている。

筆者追記 ※1 払暁:夜の明けがた。あかつき。※2 僕婢:下男下女。召使。

留守を伯父の清蔵主(瑞泉寺塔頭龍泉院第三世住僧)が守備したが、3月13日池田信輝軍の奇襲で落城した。

付記(抜粋)

降雨の真夜中、不意に起こる喊声(さけびごえ)に城中混乱、留守居の清蔵主は十文字の槍を以て家士を励まし防戦したが、衆寡敵せず遂に戦死し、城は池田軍の手に帰した。清蔵主五十八、犬山公民館前西谷の坂上の戦死の現場に記念碑がある。

清蔵主は瑞泉寺と有縁の飛騨益田郡禅昌寺で修養した蔵主である(蔵主は座元、首座と共に禅僧の柄役兼階級である)。城主池田信輝時代既に犬山に来往した。天正七年創建した瑞泉寺の梵鐘は此清蔵主の寄進である。従来鐘は寛永、享保に改鋳せられたが銘記は転刻してあった。此梵鐘銘記の拓本を以て清蔵主寄進を立証する。然し長年月に誤字のまま伝えられているのを散見することもある。

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